サステナブル
闇落ちプログラマたちの名文
素質の無い"初心者"プログラマを懇切丁寧に、愛と熱を以ってこき下ろしているこのnote。
プログラミング、6年やってミットを頭にかぶってるバッターとか、鍵盤蓋の上から殴って音鳴らそうとするやつとか、まずそういうレベルのやつが大量発生するんですよ。だいたい7割ぐらいの率。どうすんだよこいつら。私の教育の問題か?マジで?本当に?
megalodon.jp
反響を呼びすぎたがためか元記事はすでに削除されてしまった。
しかし俗にいうWeb魚拓は残っていて、たまに読み返させてもらっている。
他にも、昨晩見つけたブログの醸し出す空気感に引き込まれて、今朝にかけてチェーン的に読み漁ってしまった。
特にこの記事なんかは、10年後の自分は果たしてどんな風に考えて仕事しているのかなと、背筋を冷やされた気分だった。
思えば10年以上もプログラミングを仕事にしてきて、特別な実力や素晴らしい信頼関係は手に入らなかった。いや、手に入れようと努力さえしなかった。 www.byosoku100.com
常々思うのが、(黎明期から随筆的なWebメディアを使いこなしていた人が多いのもあろうが)プログラマには読ませる文章を書く人が多い。
なぜだろうか?
たぶん、プログラミングに一定以上要求される理屈っぽさという素質。そして、諦念や嫉妬、憤りなどの負の感情を"見出してしまいやすい"、現代日本のプログラマを取り巻く環境。
この2つの悪魔合体の産物じゃないかと思う。
列挙するのは面倒だが、まあ素質についても環境についても具体例は思い浮かぶ。
闇堕ちプログラマたちがネットの海に刻み付ける名文は強烈な劇薬だ。ダウナーで読むと、耳元で「お前の行く末はどうだ?」と囁かれているようで、背筋が震えてケツに火がつく。
そしてその先の話だ。
こうした劇薬に慣れてしまわない今のうちに、学問的基礎なり一定の業務経験なりを積み上げなければいけないなと思う。
現状24歳でさえ、モチベーションがバリバリ沸き上がることなんて稀なのだ。
まして5年後10年後、自意識の支柱たる向上心のようなものが、どれだけ朽ち果てずに残っているのか。
痛みから逃れるための頭痛薬や、不眠から逃れるための睡眠薬は対処療法だ。根治には持続可能な生活改善が必須だろう。
薬剤には耐性が付き物だ。
というわけで、カフェで勉強してきます。
腰を据えずにノリでやる
見るものがなくなった
デジタルデトックスを目指してSafariとTwitterにスクリーンタイム制限をかけた結果、「上限決まってるし今はいいや」と惰性でネットを見る時間が減った。
利用上限を設けると、リソースの重要性にかかわらず節約を心がけるんだと思う。
今までもスクリーンタイム機能を試したことはあったのだが、その時は時間超過による利用制限が形骸化してしまったので、我ながらなぜうまくいったのかわからない。
コロナ自粛での浮世離れがかなり本命くさいが。
そういうわけでネットを見なくなった代わりに、土日の寝起きに布団でSNSをいじっていたような感覚で本を読むようになった。
なんもやることが無い時間をつぶすために、カジュアルに本を使えるようになったのはかなり理想的で、このまま老後までいけそう。
特に、仕事の合間の煙草タイムでKindleを開けるようになったのが大きくて、そのおかげで3冊くらい読み進められた。
最近読んだもの
1冊目が森絵都の『出会いなおし』で、時間をおいてこそ改めて気づくことができる自分や他人の多面性のようなものをテーマにした短編集。
個人的に気に入ったのは、ほかの短編とは若干異色な感じの『テールライト』だった。
この短編では、出会いなおし、という本作のタイトルとは裏腹に、今際の別れ際の祈りにフォーカスするような掌編が続く。
シメの掌編もなかなかテイストが重たくて、テールライトというタイトルに”後の祭り”的な意味合いを見出してしまった。
2冊目が『功利主義入門 はじめての倫理学』で、ちょっと前の新書100円セールでお菓子掴み取り感覚で買ったものだ。
新書をいい流れで読み終えられたことがあまりなくて、これまで少し苦手意識を持っていたのだが、この本はかなり読みやすかった。
たぶん、新書はフォーマットが定まっていないからこそ、著者の読者への歩み寄り方や文章力が露骨に出るのだと思う。
功利主義という分野については「最大多数の最大幸福」というフレーズが力強いな~くらいの認識しかなかったが、これ一冊でそこからは結構アップデートできた気がする。
特に修正された功利主義に関しては、あまりスタンスを取っている感じがしなくてなかなか新鮮だった。
ラディカルさを抑えて「みんなの幸せが大事」と主張するのは、もはや普通の人と何ら変わらないのでは?という雑な印象。
あとは、「倫理っていろいろ極限状態で思考実験するけど、人間そんな風に実践できるようになってねーから」という、(最近よく見る気がする)行動経済学っぽい知見からの批判にもちゃんと言及しているのがよかった。
3冊目は『教養としてのコンピュータサイエンス』で、C言語の大家のブライアン・カーニハンが書いた入門書。
教養としての、という枕のとおり、技術書というよりは読み物といった感じで内容的にはライトだったと思うのだが、ちょっと読み進めるのがしんどかった。翻訳の癖か構成の癖か。
とはいえ、独特な語り口のおかげで印象に残った概念もあって、「物理的な設計と論理的な構造を完全に区別できるのがコンピュータシステムのキモだ」みたいなところは面白かった。
教養としてのコンピューターサイエンス講義 今こそ知っておくべき「デジタル世界」の基礎知識
- 作者:ブライアン・カーニハン
- 発売日: 2020/02/28
- メディア: Kindle版
Time Flies
そして、こういう生活習慣が定着すると日々が過ぎるのが早くなった気がする。 ふつうはこういうのって、「惰性で時間を過ごさなくなって、日々が記憶に残るようになりました」みたいに言うもんだと思っていたのだが。
もう7月も3分の1がすぎてしまった。
とりあえず早めに雨が上がってほしい。
習慣への隷属
日課の効能
めちゃくちゃ楽しそうに生きている某友人から聞いた、筋トレ習慣化メソッドをパクっている。
曰く、「どんだけクソみたいに酔った飲み会の後でもできる最低限の単位を設定して、何が起きても必ずやる」とのこと。
おかげさまで、たぶん一か月弱くらいはプランクと英語リスニングが日課になっている。
前者は1分20秒を一回、後者は3分の同じ動画を英語字幕&字幕なしの二回というとてもシンプルなセットだ。
生憎下戸なので、実際に"クソみたいに酔う"ようなことはほとんどないが。
もちろん、余力ややる気があるのならばさらに追加でやればいい。まあだいたいは最低ノルマをクリアして終わりになる。
筋トレ&英語を合わせても10分にも満たないので、本当にやらないよりはマシ、という程度なのだが、これが意外と健康に寄与している気がする。
日々のハードルを具体的かつ最低レベルに落とすことで、寝る前にそれだけできていればトータルオッケー、というメンタルに持っていけているようだ。
習慣という枠にハメ込んでしまうことで脳死で物事を継続できる、というのはよく言われていることではあるけど、その効果に自覚的になれたのは初めてで、結構衝撃が大きい。
逆に、なぜ今までこれができなかったのか、というのが我が事ながら疑問なのだが……。
おそらくは”最低限”の見積もりが全然高かったんだろう。
なんのかんの意識高めに書いたが、まあ極論この”やってる感”はプラシーボで全く構わないと思う。
「Youtube見るだけで10万円以上してる機械」とはよく言ったものだが、どうせ同じように従うならば、惰性よりは自分の決め事の方がいい。
たとえそれが無意味でも。
7/1
タイトル案が無い
振り返りっぽく書き始めたはいいが、いっさいそういう記事にはならないと思う。
Creepy Nutsのオンラインライブのアーカイブを見ながら、若干手持ち無沙汰になったので何かを書きたくなっただけだ。
それにしても、どっかの分析で言われていたけれど、「動画を見てて暇」というのは思えば妙な言い回しだ。
目と耳は対象に注意していてなお、頭は案外フリーなことが多いのだろうか。どうせなら、同時に別のことを考えられる方向で注意力を使いたい。
見ていた動画の話。
R-指定のラップを聴くと毎度、こうも口が回る人間がいるのかと驚かされるが、今回の配信ライブではド頭の『板の上の魔物』で結構がっつり飛ばしていて新鮮だった。
”甲子園の魔物”的なことを歌ってる曲なのだが、配信無観客ライブの魔物に本人がやられてしまったのも趣があってほほえましいと思う。
言葉数が足りない
しゃべっていればかなり饒舌な方だと思っていたんだけれど、独り脳内を滾々と文字に起こす、というのはだいぶ勝手が違う。
リアクションが無いと自分が思い浮かべうる範疇にしか意識の矛先が向かない。
「個人の自由意思という概念はフェイク。なぜなら行動の選択肢そのものを意識的に思い浮かべることはできないから」という考え方を最近本で読んだが、そういう話だ。
森絵都が良い
書くことがないということを書いていたら書きたいことを思い浮かんだ。
この想起の流れも、どっからそれが来たのか俺自身が感知することはできなかった。
森絵都の作品群が知らぬ間に一気にKindleでも発売されていて、昨日から『出会いなおし』をポチって読んでいる。
思えばこういう体裁で、読み終わっていない本の話をすることはあんまりないかもしれない。
俺は作家買いをすることが多いんだけれど、『カラフル』を昔読んで以降、なぜかほとんど森絵都の本は読んでこなかった。『みかづき』と『風に舞い上がるビニールシート』、あと『永遠の出口』くらいか。
どれも好きだったんだが、謎だ。ともあれKindle解禁を機に制覇を目指したい。
ところで森絵都の好きなところ。考えてみると難しい。
まず言うなら、全体的にポジティブ寄りで多彩な読後感があるのが好きかもしれない。
素朴に人生頑張ろうと思わされたり、終わってしまった関係への寂寥に感じ入らされたり。
いろいろと読み味はあるが、どれも嫌な気持ちになることが無いのは良い。
そしてなにより読みやすい。文章の技巧はわからないけど、書いてある文章から脳内で映像を組み立てるのがとても楽。
比較的地に足ついた主題が多いからか作者の視点も日常ベースにとどまってくれていて、それが読む側にとってありがたい感じ。
日記兼暇つぶしのつもりで書いていたはずが、どうしても前後のつながりを意識しないと文章が書けない。
クオリティや他人の目を意識せずに話題や言葉を選んでいるのに、自戒に手を止められてしまうのは本末転倒だ。
書き上げてSNSに貼るルーティンによって、読み手を無意識に想定しているのかもしれない。もっと自己満足を意識します。
家族の一面
舞台裏
自分の身の回りでは依然としてリモートが主流。
飲み会も会社も同居している弟の講義も、9割Zoomを介して行われている。
ところで、共感してくれるかどうかわからないけれど、特に中高生時代、友達と話しているときの自分を家族に見られるのがなんとなく嫌だった。
逆もしかりで、母親の声が身内以外との電話で突然ハイトーンになるのを聴くのなんかも、どこか気恥ずかしかった。
ペルソナとか分人とかそれを指す表現は色々あるけれど、人に接する態度のギャップの存在が露呈する瞬間が苦手だった。
実際、結構一般的な感覚だろうと思っているが、体感としては、その居心地悪さが充分に市民権を得て、あるあるネタとして共有するのが許されてきたのはここ数年のことだと思う。
ユングが外的人格をペルソナと表現したのが20世紀半ばのこと。
”付け替え可能な仮面としての人格”という概念が提唱されてから、そこに伴う小さなもどかしさがカジュアルに通じるようになるまでは、だいぶ時間がかかっている気がする。
もちろん、そもそも言及された文脈が日常生活とは違うので一概には言えないが。
話を戻すと、家族の被る仮面の内側を暴くのが昨今のリモート○○の隆盛だ。
それまでは基本的に、時間と空間を共有している相手だけが自分の外面を認識できていて、家族も例外ではなかった。
しかし、家で大半のコミュニケーションが行われるようになると、同居人には大半の外面レパートリーがバレてしまう。
ペルソナの語源は古典演劇で役者がかぶっていた演技用の仮面らしいが、まるで家族が「部隊の観客の一人」から「同じ座組のスタッフ」になったような感じがする。
パワーバランスが兄である自分に偏っているからか、はたまたこんなブログを書き続けてきたのが幸いしたのか。自分の仮面レパートリーが赤裸々になるのはもはや気にならなくなったが、逆が未だに慣れない。(弟がガチボッチなのよりはマシか)
まあ各々の個室があれば別なんだろうが、そこは若手サラリーマンの悲しさ。
巨額の固定費の増加に踏み切るには、いまひとつ口座残高と蛮勇が足りないのである。
複利は人類最大の発明らしい?
証券口座開いてみた
アインシュタインが言っていた、らしい。
というわけで、若干の減額はありつつも無事にボーナスが支給されたのを契機に、楽天証券に口座開設を申請してみた。
いつ審査が終わるのかわからないけれど、手続きが済んだら積み立てNISAに今季ボーナスを限度いっぱいぶち込んでしまおうと思う。
Kindle Unlimitedの本も、金融系勤務の友人も、Googleのヤバいエンジニアもとりあえずインデックスだけ買っとけばいいって言ってた。
ありがたく拝聴奉り、盲信させていただきたく存じます。
考えてみれば、「時間さえ許すのならば、誰でも最高効率を達成できる」というのはとても素晴らしい。
Time is power
”時間が許すのならば”との一言の留保が、もろもろの勘所なんだろう。
ありふれた警句をわざわざ書き並べる気もしないが、まあだいたいそういうことだ。
最近は、古くから語り継がれてきた格言に一周回って回帰するような経験が多い。
歴史に学べるタイプの人間になりたかったが、百聞は一見に如かずというのもまた一理ある。
身に迫らないと学習できない人間の性質にどうしようもなさを感じる。
こと時間に限っては、体験を経て学習した後にはその肝心な時間をロスしているというのが尚タチが悪い。
時間について考えたことを脳直で書き出していたら、想定以上に悲壮感が漂ってきたのでやめる(笑)
想定読者層の人たちは頷いてくれるはずなんだが、こういうことを考えているときの俺はたぶん知ったような顔でニヤついていると思う。
俺が何を考えたかったかというと、時間の消極的有効活用について。
どのラインまで短絡的に過ごしていても、中長期的にもイイカンジに生活していけるのか?
どのラインまで無自覚的に過ごしていても、出来ないことができるようになるのか?
どのラインまで場当たり的に過ごしていても、自分が殉じられる価値観が(たとえ虚構であっても)定まるのか?
どんな生活までが”許容範囲”なのか……
……と、ここまで書いてくる過程で幾分考えてみたけれど、これは結局、後付け的に過去を追認することでしか解決しない気がする。
そのうえ、俺はどんな暗黒時代でも過去を切り捨てられないレベルでプライドが高い(これを書くのもかなりアレな気分)。
どうせ、将来の自分は現在の自分をテキトーに肯定してくれるんだと思う。
そうなってくると、結局今考えても仕方がない類の悩みだということになってしまった。
……は? ここまで何なん??
時間の性質上考えても仕方がないタイプのコトがある、という結論に、時間をかけて至った、という……。
図らずも、数行前の「時間を無駄遣いした結果すでに言われつくした内容に着地しがち」という自己言及を、舌の根も乾かぬうちに完全再現してしまった。
皆さんが初夏の夜半を良きように過ごしていることを願っております。
劉慈欣『三体Ⅱ 黒暗森林』を読んだ感想
「宇宙社会学の公理その一、生存は、文明の第一欲求である。その二、文明はたえず成長し拡張するが、宇宙における物質の総量はつねに一定である」
(中略)
「……それと、もう一点。このふたつの公理から宇宙社会学の基本的な青写真を描くためには、あとふたつ、重要な概念がある。猜疑連鎖と、技術爆発」
はじめに
世界的SF文学賞、ヒューゴー賞長編小説部門をアジア人作家の作品で初めて受賞。
三部作累計で全世界2900万部以上を売り上げ、いち小説シリーズがこんなに話題になるか? というくらい世界的に盛り上がった中華SF『三体』。
昨年に発売された第一巻の日本語訳も、合計12万部の発行を記録し、畑違いのビジネス誌でも特集記事が組まれる(絶対オバマとザッカーバーグがオススメしたからだと邪推してます)など、翻訳SFとしては尋常でない反響を呼び起こしました。
そんな『三体』の待望の第二巻、『三体Ⅱ 黒暗森林』の日本語訳が、つい先日発売されまして、今回はその感想を書こうと思います。
微妙に内容に触れるところもありますが、物語の面白さを損なうネタバレは避けていますのでご安心を。
ちなみに、以前書いた『三体』第一巻の感想記事は以下に貼っていますので、ぜひそちらも。
あらすじ
巻末解説からの引用です。第一巻のネタバレ込み。
結末では、三体文明が地球を侵略する計画があきらかになった。さいわい三体文明の宇宙艦隊が到着するまで四百年以上の時間がかかるので、人類にとって準備の時間がたくさんある。
しかし、三体文明が智子という改造された陽子を地球に発射した。高エネルギー物理学の素粒子実験が妨害され、人類の活動も智子に監視されている。
『三体Ⅱ 黒暗森林』では、この状況に陥った人類の対策が描かれている。
智子の監視はまるで死角なし。唯一の例外は「人間の思考」である。
それに対して、人類は「面壁計画」を実行した。四人の「面壁者」が選べれ、莫大な権力を与えられ、独自で対策を実施する。週末決戦まで、彼らは誰にも本当の対策を言わない。面壁者は三体文明と全人類を騙さなければならないのだ。
そして、この絶体絶命の状況で、人類を救う鍵は「黒暗森林」という学説である。
以上引用でした。
補足すると、記事の冒頭で引用した一節が、第一部の主人公葉文潔が見出した宇宙文明関係の絶対法則にして、地球防衛の秘策「黒暗森林」のエッセンスです。
物語の冒頭、本作の主人公羅輯は、葉文潔から、その二つの公理と概念をもとに"宇宙社会学"を研究するように勧められますが、その時点ではこの分野の重要性に気づいていません。
物語が展開すると、羅輯は全く状況がつかめないまま、「三体文明から執拗に危険視されている」という理由で面壁者の一人として抜擢されます。
「政治力、軍事力、科学的才能のいずれも欠けた自分が、両陣営にとって重要人物足り得たのはいったいなぜか? それは、表舞台を去る直前の葉文潔から、あの突飛な"宇宙社会学"を伝授された唯一の人間だという一点である……」
面壁者として自問自答する羅輯はそうして、謎かけめいた"宇宙社会学"の話の本質に気づき、唯一の秘策「黒暗森林」理論を見出して、地球文明の防衛に向けて動き出します。
感想
個人的には、SF的着想としてもエンタメとしても、本作の最も独自にして面白いポイントはやっぱり「黒暗森林」理論だったと思います。
まずは、その斬新さと独創性です。
技術的に発展した未来世界への想像や、宇宙のスケールの莫大さや、それらを鏡として現れる人間性など、SFでは様々なテーマに基づいた作品が数多く刊行されてきたことかと思います。
しかし、宇宙を社会学/経済学的視点で捉え、広大な宇宙に点在しているはずの、知的文明どうしの関係性という点に着目して物語の核心に据える、というスタンスの作品は、自分は今まで読んだことがありませんでした。
SF作家の発想力にはいつも驚かされますが、これもすごいアイデアですよね。
着眼点、というトピックについて加えて言うと、作中世界で葉文潔はなぜ、どのようにしてこの理論を導出したのか、という巻末解説の考察も読み応えがあります。
また、「黒暗森林」理論は、読者にページをめくらせるためのストーリー上のエンジンにもなっています。
「葉文潔の残した言葉は、具体的にどんな結論につながるのか?」
「それをどうやって地球防衛に落とし込むのか?」
「面壁者として、その作戦を、困難をかいくぐってどう実行するのか?」
特に上巻後半で羅輯が面壁者としての責務に向き合い始めて以降、この先はどうなるのかという好奇心が湧いてきて読み進める手がなかなか止められませんでした。
羅輯が黒暗森林の真理に至ってからのクライマックスも、ミステリ物の終盤のような畳み掛けがアツいです。
斬新で知的好奇心をそそられ、話をドライブするというだけでも充分ですが、このアイデアは、物語のスケール感や宇宙という舞台特有の底知れなさを保つのにも一役買っているんじゃないか、とも考えています。
この第二巻では、三体文明の存在と目論見が作中で明らかになったことで、防衛vs侵略の対立構造が強調されています。
個人的には、得体のしれない大きな動きが主人公たちを翻弄していた第一巻に比べて、どこかミステリアスさに欠けると感じてしまうところもありました。
が、そこで「宇宙では、まだ見ぬ知的文明が無数に目を光らせているのだ」という作中事実が提示されることで、地球vs三体文明にとどまらない宇宙の奥行きへの想像と、次の『死神永生』はどんな物語なのか? という期待感を得られました。
他にも、モチーフのレベル感に対する圧倒的な読みやすさや、映画のようなテンポ感、知的好奇心を掻き立てるディテール、大いなる現実を目前に信念を貫く人物の魅力など、前作で見られた『三体』の魅力は健在です。
ちなみに、三体シリーズ最終巻『死神永生』の日本語版は2021年春発売されるとのこと。
まだ全然追いつけるコンテンツですし、訳文が平易でスイスイ読めます。オススメです!