ユヴァル・ノア・ハラリ『21 Lessons』を読んだりした
時間の使い方
休憩時間や業務終了後に本を読むようになった。反比例してスマホを見る時間が減ってきているのがかなりいい。
どうせ情報を摂取するなら活字から読んでいった方がやってる感あって充実しているし、こういうノリで徐々に時間の使い方を良くしていきたい。
とは言ったものの、どういう時間の使い方がいいのか?というのは正直未だによくわからない。
スマホでSNS見ているよりは、読書の方が相対的によさそうだなくらいの所感だ。
何が良いのかはよくわからないけれど、よくないと感じられる時間を減らしていくことはできそう。
理解ってコスパ悪くね?
最近読む本も、こういうアプローチで主張を進めるものが多くなってきた気がする。「どうすべきかは言えないが、どうするべきでないかは確かだ」みたいな論調。
積極的な判断を下すには、自分なりの基準と同時に対象への理解が必要だ。
たとえば、二人の人間がケンカしていたとしてどちらが正しいのか? という疑問に対しては、そのケンカに至る経緯を一部始終把握していないと答えを出すことはできない。
なんにしても、こういう本を書く作家たちにとっても、そのコストがとても高い時代になってきたのかもしれない。
情報量多めの初耳の曲を聴きながら書いているので、集中力が持ってかれていつにもまして掴みどころのない文章になってはいるが、おととい読んだ『21 Lessons』にもこういうことが書いてあった気がする。
曰く、世界は人間が理解するには複雑になりすぎているので、グローバルな視点で価値判断を下せる者は誰もいなくなってしまったと。
上に挙げたように、『サピエンス全史』や『ホモ・デウス』とは違って現代・近未来にフォーカスしているのが本書。
社会学や国際関係論には全く明るくないので、著者の分析になるほど~とうなづきながら読み進めた。
あまり未来志向で物事を語るタイプの本を読まないので、著者流の未来像なんかもわりと興味深くて面白かった。
特に技術発展についてのところは、シンギュラリティあるよ派の主張の中では一番説得力があった気がする。そもそもあまり読んだことがないのでアレだけど(笑)
「何がいいかはわからないが、それがダメなことはわかる」
ただまあ個人的には、著者の一番の強みは過去作からも一貫した風刺のセンスだと思う。
あらゆるイデオロギーは虚構だ、というのはこれまた著者の一貫したスタンスではあったが、本書ではまさに解体作業といったテンションで、軒並み批判の切っ先を向けている。
序文で「グローバルな問題に立ち向かうには、部族や国家をまとめるための虚構は時代遅れだ」というスタート地点に立ったからだろうが、すごく入念に潰している(笑)
そういう論調って読み味が一辺倒になりがちな印象があるけれど、本書のボリューム感でそれを読み通させるのが、著者のブラックユーモアのセンスだ。
本書は「ディズニー、自由意思を信じられなくなる」など見出しのパンチも強いが、やっぱり宗教イジりが著者の真骨頂だと思う。
(女神転生のような)フィクションでみだりにその宗教を扱うと、原理主義者に目を付けられるみたいな都市伝説があったけれど、そういう世界線がリアルだったとすると、著者はすでにこの世にいない気がする。
それだけ舌鋒鋭く従来型のイデオロギーを解体してくれると、終盤では必然、著者独自のビジョンに注意が向くわけだが、そこは正直あまりハマらなかった。
個人的には、「著者の未来観に立ったとしても、何故その備えが妥当なのか?」というところに引っ掛かった(俺の読解力の問題かもしれない)のと、期待が高まっていた割には独創性に乏しかったような印象を受けてしまった。
「 批判するなら対案だせや」論は現実の生活でもよく耳にする(9割9分どこで飯食うかの話)が、こういうレイヤーの話に当てはめるのはやっぱりシビアなんだろうな。
そんな複雑性に満ちたこの世の中で、一つだけ確かなことがあるとするならば、「夜は電子機器の使用を控え、質のいい睡眠をとるのが正義だ」ということだ。
現在時刻23時56分。お後がよろしいようで。
なぜ内省に惹かれるのか
目の前のおじさんのヅラをはたき落としてみたい
最近、見られて痛いようなフォロワーも最早いない気がするし、このクソ赤裸々ブログを社交用Twitterアカウントにも晒してまおうか? という危険な衝動を覚えることがある。
外界とのやり取りが受信方向に偏りまくっていると、こっちからなんか働きかけてみたくなるみたいな動きなんだとおもう。
フォローしている大学時代の知人がnoteを始めたりしてるのが目に入るのも、「そろそろみんな、リア友の長文がTLに流れてきてもフラットに受け止める機運なん?」みたいな、確度低めの時代感覚に拍車をかけてよくない。
もし突然、「実は3~4年前からずーっとシコシコブログ書いてたんっすよ(笑)」とリンクを張り付けたらどうなるだろうか。
逆の立場なら、そんなに仲のいい人のモノでなくても流れでゴリゴリ読んじゃう気はする。
いろいろ環境や価値観にアップデートはあったけど、とりあえず、他人がどういうことを考えているのかに興味があるのはいまだに変わらないようだ。
世間話スキルが落ちている??
わざわざこの時期でも話をする相手となると、やはり必然的にそこそこ関係値の深い友人に限られる。
マジで話題がない。引くほど提供できるトピックが薄い。
「どんな感じよ?」「そーね、まあぼちぼちやな……」後者の返しを直近で何回繰り返したか。
時勢柄の話を持ち出したりもするが、そのニュースに本質的に興味のあるメンツはたいてい多くない(笑)ので、結局、いつのまにかニュースを話題にしているようで俺の自分語りに陥っていることが多い。猛省である。
意識的にこういう文章に吐き出すことで改善を試みているが、結果そこまで変わっているかと問われるとビミョー。
癖はなかなか治らない。
聴くも語るも
前段2つは何だったかといえば、要するにここ3年半くらいずーっと内省的な話が好きなまんまだということだ。
他人のこれまでの人生の歩みや価値観の変遷をじっくり聴くのも好きだし、俺が自分の話をひたすら語り散らかすのも好き。
なぜここまで人間の頭の中に興味があるのか?
たぶん、それをシェアすることでその人と信頼を醸成できるような気がしているんだと思う。
特に人の話を聴くことについては、その人がどういうことを考えながら今まで生活を送ってきたのか、ということを一部でも俺に明かしてくれるというだけで、ほんの少し自分が好きになれる気がする。
「そういう話って一回腹割って済ませちゃえば充分じゃないの?」と我ながら思ったが、経験上案外そうでもない。
というのも、自分についても他人についても、その時の会話でできる話はその時限定のスナップショットのようなもので、生活を積み重ねるにつれて価値観は少しずつ変化していく。
そんなに大きな変化でなかったとしても、その差分を知るのが俺にとっては楽しいっぽい。
論理的に考えるにはすこし眼精疲労がつらいので、乱暴&感覚的にまとめてしまった。しかも、1300字を費やしたにしては結論があんまりにも凡だ。
振り返ってみると、俺どんだけコミュニケーションに飢えてて、かつ人と仲良くなりたいのよ? と言わざるを得ない。ヤバい(笑)
最近感じること
Nothing to Read
コミュニケーションのチャンネルが、業務連絡、弟への家事の指示、週末のZoomくらいに狭まってきている。
全国的に人の往来が復活しない限りはこんな状態がしばらく続きそうだ。
最近の内心をどこかで発散しておかないと、すっかり貴重になった友達との機会でも、需要の薄いお気持ち表明で時間を使ってしまいそうな気がする。というか、その前科がある(笑)
すべてを内々で処理して、TPOに応じて話題を切り替えられるほどの器の大きさには未だ到達できていない。
そういうわけで、テキトーに文章を書き連ねて発散しようと思う。
(見てくれる人の層はほぼ変わらないはずなのに、同じことを書き殴るならTwitterよりブログの方がマシな気がするのはなんでだろう?)
転属しました
名ばかりプログラマとして現職に就いて1.5年くらいたってしまった。
といっても、配属されてからこの6月までは、便利屋タスク4割/サボりながら個人的勉強を6割という感じだった。
明確にプロダクト開発にかかわる役割が与えられたのは今月からなので、「今月からソフトウェアエンジニアになりました!」みたいにうそぶいても許されそうな気がする。
実務未経験0か月の割にはデキる方じゃね? という自己暗示によって、勉強量の至らなさを正当化できたりしないだろうか(笑)
実際、職務経歴書を書きたくなったときに、入社して2年間をどういう風に表現したら売れる人材っぽくなるだろうか?というのはたまに悩む。
最初の上司がこの人で良かった!といえるくらいには恵まれた環境においてもらっていたけど、俺が快適に2年間を過ごせた事実は、必ずしも将来の数年を快適に過ごせるか否かにはつながらないのが悲しいところだ。
まあ、そういう薄い悩みを考えなくていいくらいには断続的にタスクが降ってくる環境に移ったので、目の前のことを粛々とこなしていけば、食いっぱぐれることは自然となくなると信じてやっていきたい。
そんなノリで新チームの仕事を進めていましたが、この間朝礼に寝坊しました。
ここに懺悔します。
ZORNの曲が良い
大学3年生くらいにフリースタイルダンジョンを見て以降、そこそこの浅瀬でHIPHOPを聞くようになった。
ケンドリックラマーとエミネムみたいな、何を言っているか分からなくてもなんかすげぇみたいなラッパーを除けば、ほとんど日本語ラップだ。
リズムを掴みやすくてわかりやすい節回しの上に、「そんな歌詞出てくる?」という驚きというか、言葉遊び要素が趣味に合っていたんだと思う。
MCバトルでラップしているR-指定なんかはそのセンの極致というか到達点のような感じなので、知らない人がいれば、無数に転がっている動画をちょっと見てみてほしい。
そういう音に乗れる言葉遊びのところで、最近好きなのがZORNというラッパー。
「わざわざ格下を見ないでしょ 俺が葛飾のリヴァイ兵長」(『百千万』)とか「表参道のオープンカフェよりも 嫁さんとの醤油ラーメン」(『Have a Good Time』)とか、音韻はぴったり一致しているのに、落とし方のワードセンスが独特すぎて、一種の曲芸感があってすごくいい。
めちゃめちゃ押韻がすごいのに意味の距離感が遠すぎて笑っちゃう、みたいな言葉遊びも魅力的なラッパーだけど、至極まっとうな名曲もいくつも出している人なので、良かったら聴いてみてほしい。
『My life』なんかは、星野源の『恋』の「意味なんかないさ 暮らしがあるだけ」的な透徹した生活感を通して歌っていて、日本語ラップを普段聴かない人でも楽しめると思う。
自分の欲望を正しく理解する
名詞を列挙するだけで、読んでくれている人に一定のイメージを喚起させられるというのは、日本語の力を感じ入る機会のひとつだ。どっちかというと脳の連想機能か。
見ず知らずの縁もゆかりもない対象に呼び起こされる怒り。そして、それを距離の離れた当事者や利害関係者にぶつけようとするアクティブさ。
その苛烈さは、自己防衛や社会的義憤からくる怒りだとはどうにも考えにくい。
邪推だが、漠然とストレスが溜まっているときに、メディアがサンドバッグを投げ込んでくるような感覚なのではなかろうか。
精神が不均衡な状態で感情の反応を抑えるのは、だいぶ難しい。それを掻き立てることには百戦錬磨のメディアが相手とあってはなおさらだ。
ので、どうすればそうならずに済むのか? と考えてみたところをちょっと書いてみようと思う。
まあ見出しにしちゃってるわけなんだが、自分が何を望んでいるのかを理解して認められれば、自然と平和になるのではなかろうか。
仕事、恋愛、健康、もっと内面的なこと。
なんでもいいが、生活をどうしていきたいのか、それには何が足りないのか、というポイントをクリアにできれば、謎に不安定な状態を脱しやすくなる気がする。
目前の山積する雑務や細かいストレスに圧倒されていると、(それが効率良いからこそ)短絡的/反射的に対応してしまうことが増えるのだと思う。
考えすぎてもよくないが、考える時間がなさすぎるのもよくない。
目的への推進力が得られれば、多少の横風が吹いてもブレずに済むはずだ。
すこし意識高すぎる解釈かもしれないけれど、それで平和になるなら万々歳だと思う。
品田遊『名称未設定ファイル』を読んだりした
俺得ライフログ
あまり深いこと考えずに、読んだら読んだ分だけインターネットに放流した方がPVとか読者とかあわよくば言及とかがあって面白いかな、と思い、フォーマットやボリュームにこだわらずブログに書きつけていきたいな~というモチベが湧いている。
それが継続的なのか否かみたいな予防線がもはや自動出力されそうな自分の癖に辟易(うまい)しているので、ここではあくまで、いまそういうモチベなんだということだけを言っておきたい。
誰に言っているのかといえば、読まれている方ではなく、もちろん俺の罪悪感に対してである。
アフィの1つも張ってないのにコンテンツ性のために響いた本に反応して、序文→要約→感想/考察→丸め文みたいな構造にのっとって書くのに疲れて、本来残せたはずの文章が残せなくなるのは本末転倒だなぁと感じる。
せっかく、指をばたつかせてるだけで仕上がる日記帳があるんだったら、活用すればいいんだ。
日記とかSNSとかカメラロールとかに一定の引力があるのは、だれしもかつての自分の姿に何かしらのおもしろみを感じられるからなんだろう。
実際に俺も土曜の昼前くらいに布団でスマホを延々スクロールすることがたまにあって、"mixi発掘ネタ"みたいな感じで巷で言われているよりは、自分の過去ログを好意的に楽しむことができている。
無意識のプライドが高すぎて、マジで見るに堪えないモノはすっ飛ばしているだけかもしれない。
とりあえず、いまこれを書いていてそこそこ楽しめているので、将来の俺にとってもそうだと思う。
『名称未設定ファイル』
そういう、散文的なゆるい衝動が先立って、それらが発散しないようにSF/現代風刺の串を刺してまとめあげたSS集、みたいな印象を受けたのが、今日読んだ『名称未設定ファイル』だった。
つまり、そんなに気張らずに楽しく書いたのかなという印象を受けた。商業出版を個人ブログと括ってしまった。
著者はオモコロのダ・ヴィンチ・恐山氏ということで、ネットメディアに明るくない自分でもコンテンツを見たことがあるくらいには、有名なインフルエンサー?らしい。なんかのツイートかブログを見て購入したので、奥付で知った。
実際、トゥルーマン・ショーwith匿名巨大掲示板、みたいな掌編はなにかを面白がって/楽しんでいないと出てこないアイデアだと思う。トゥルーマンの出産実況から息子のスレが立つくだりがお気に入りだ。
あーー、フォーマットにこだわらずに感想書くのめっちゃやりやすくてビビる~~。
あと好きだったのは、初っ端の『猫を持ち上げるな』で、ネットの濁流から距離を置いている"正しい現代人"然とした主人公が、まさに猫のきまぐれによって強制的にそこにおぼれそうになる構図がよかった。助けてくれた管理人の「自分はニュースに詳しくなくて」という一言で正気を取り戻したように見える流れも、ああそういうふうになるかもと妙な実感があった。
ほかにも、最後の短編もプロットだけだとケン・リュウ作品とかに出てきそうで、通してわりかし楽しく読めたんだけれど、一番記憶に鮮やかなのは『最後の日』だった。
ソシャゲとTwitterで時間を引き延ばすくらいしかやることのない大学生が群馬に帰省した1日の話で、特に山場があるようには感じられなかったのだが、なぜか印象的だった。
たぶん、俺が全力で避けて通りたい有様が描写されていたからだと思う。誤解を恐れずに言えば、大学で一番俺が冷笑していたタイプだ(実際にそういう人とオフラインで関わったわけではない←重要)。あえて発信しないだけで、なんなら今もそういう精神性は健在かもしれない。
じっとりとした自戒、という感情を一番引き出される媒体は俺にとって常に文章である。そういう独特の湿度を感じられるたびに、ああ俺はまだ、とりあえずはまだ大丈夫だ、という安心感を得られる。
これは、実際に『最後の日』を読んでいるときに即応的に感じた、というわけではなく、今書きながら考えたことだけれど。
あんまりこういう形で落とす予定じゃなかったのに、座りのいい一節がもう出てこない(笑)
そこそこの可塑性が常に許された豊かな平穏??
まあ、1時間で2000文字弱が書きあげられたということで、娯楽的コスパが今回で圧倒的に改善されたのはよかった。
昨日は生産性度外視の頭のひねりが充実感につながる、みたいなことを書いていた覚えがあるけれど、時間を食わずに持続的満足感を得られるならそれに越したことはない。
そういえば、住んでいる自治体の10万円引換券をついに提出できた。
なかなか届かなかったので、給付まで2~3週間という案内文の文言に一抹の不安は残るが、忘れたころに口座に10万円増えている、というのもなかなかよさそうな体験なので、いっそ積極的に頭から追い出しておくべきか。
今日のような感じで、そこそこに仕事をしながら同時並行で勉強し、休憩中に読み進めて少しずつ積読を削っていくような過ごし方をしばらく続けたい。
周期的な平穏に嫌気がさしたと書いて、舌の根も乾かぬうちに、それをポジティブに語って締めくくる、みたいなのも、フォーマット度外視の散文的でイケてるんじゃなかろうか?知らんけど。
朝井リョウの『世にも奇妙な君物語』を読んだ
インスタントな暇つぶしに抗いたい。
流石に2か月も経つとリモートワークとの付き合い方もわかってきて、鬱らない程度に進捗を生みつつ、プライベートをどう過ごそうか、みたいなことを自然に考えるようになった。
というか、能動的にそれを考えないと、一週間の周期性に押しつぶされそうだ。
旅行やライブなどのたまにある非日常がもたらす「待ち遠しい」という感覚が、いかにメンタルヘルスに貢献していたのかを実感させられた。
行動が制限されたまま日常業務が続いていくと、生活全部が惰性で回りだして、受動的な情報源をザッピングする以外の時間の過ごし方が思い出せなくなっていくらしい。
というわけで、インスタントな暇つぶしに抗いたい。
嫌いじゃないけどそこそこ気力が必要で、習慣化しなくても罪悪感が湧かず、コスパはよくないけどやり終えた際には適度に悦に浸れるモノ。
そうだ、本読んでブログにあげよう。
というわけで、今回は朝井リョウの『世にも奇妙な君物語』の感想記事を書こうと思う。Kindleの履歴を見たら2か月前に買って積んでいた。
本作は、「人物像、世界観、果てはその物語を描いたこと自体にも理由を求められることに疲れた」と語る著者が、「世にも奇妙なという枕詞の、不条理を一発で受け入れさせる説得力に魅力を感じて書いた」(要約)という5編の短編集である。
あらすじ
『シェアハウさない』
ライターとして名をあげ、ゆくゆくは自分の本を出版したいと考えている女性記者、浩子。
彼女は雑誌で任された特集のためにあるシェアハウスへ入居しようとするが、住人達にわざわざ共同生活を営む理由は見当たらず……?
『リア充裁判』
「コミュニケーション能力促進法」が施行された近未来では、いかに「日本人らしい豊かなコミュニケーション能力」を培ってきたかを問われる「能力調査会」、通称「リア充裁判」へ、18歳以上の未就労の若者が無作為に召集される。
女子大生知子は、知的で実直だった姉を歪ませたこの制度に複雑な思いを抱えていた。そんな彼女のもとにも、ついに忌まわしきリア充裁判の召集状が届く。
『立て!金次郎』
人当たりがよく、生徒一人ひとりに向き合うことを信条とする幼稚園教諭、金山考次郎は、PTAの圧力に屈した学年主任による「どの児童も均等に行事で目立たせる教育」に辟易していた。挙句主任は、「ある男子は今年目立っていないから、次の運動会では大役を任せるように」と圧力をかけてくる始末。
建前だけのスポットライトで子どもたちを照らすことが彼らのためになるのか? どんな場面でも、子ども自ら考えて行動するのを促すのが教育ではないのか? 彼はかつての恩師の教えを胸に、来る運動会の準備に取り掛かる。
『13.5文字しか集中して読めな』
タイトルは全角13文字プラス半角1文字の13.5文字。要約文は40文字かける3行。これが、ワールド・サーフィン社のメディア、サーフィンNEWSの金科玉条。ワールド・サーフィン社が考案したフォーマットは、短文慣れした現代人のニーズとマッチし、あっというまにネットニュースのスタンダードとなった。
サーフィンNEWSのライター香織は、自分の記事が世の中のアクセスを集めていることに充実感を覚えていたが、私生活では裏腹、夫に浮気の兆候が……。
『脇役バトルロワイアル』
世界的に著名な演出家の新作舞台の主演オーディション。近年めっきり役者としての仕事が減ってしまった淳平にとって、是が非でもつかみたい大きなチャンス。意気込んで会場入りするも、主演オーディションのはずなのに候補者は年齢、キャリア、性別ともに全くのバラバラ。唯一の共通点は「脇役俳優」であること……。
演出家不在のまま開始時刻を迎えると、候補者の面々は演出家の席に置かれていたカメラが点灯したことに気づく。
「これ、もしかして、もう始まってるってことですか?」
「噂によるとこの演出家は、脇役としてのキャリアを積みつつも、役に入っていないときには主役としての華を持つ、そんな役者を探しているらしい」
不可解なオーディションは、いかに脇役っぽい振る舞いを避けるかを競う、バトルロワイアルと化した!
感想
シンプルに読んでいて面白くて、にやにや笑いながら2時間くらいで楽しく読み切れた。
同時に、見せ方が不条理ギャグっぽくなっても着眼点やテーマはブレず、長編と同等以上に客観性や現代風刺が濃縮されていて、笑いながら戒められるというよくできた寓話みたいな気持ちになった。
須賀しのぶの『革命前夜』の解説文で本人が語っている通り、著者は何を書くにしても本人が普通に生活してきた中での経験や気づきをもとにして物語を作っているのだろうし、その、一貫して身を削って書かれているがゆえの切実さが朝井リョウの小説の魅力だなと再認識した。
個人的に好きだったのは『リア充裁判』と『脇役バトルロワイアル』。
前者は、相変わらずこちらのメタ認知に殴りかかってくるような持ち味があり、ショートショートとしてのおさまりもよく、裁判描写がアホらしくて笑える。
後者はひたすらギャグ調ながら、「客観性を求められずにすむだけの何かを持っているのが主役」など、ああなるほどと思わされてしまう一節がちょくちょく挟まってくるのが謎にエモくて好きだった。個人的に、面白ポイントが似てるなと思い出したのが『銀魂』の一話完結回。
読んでいた時間よりも、あらすじの要約と感想の言語化に使った時間の方が体感的に長かった。
時間に対するアウトプット効率で言うとヒドいけれど、そういう時間の使い方の方が「なにかした感」は得られる気がする。合理化かな?
ソーシャルディスタンス
原則リモートワーク、というのが弊社として打ち出され、上京した弟と事務的な会話をする以外の言葉を発する機会が少なくなった。
同時に、(どちらも考えて発しているつもりだが)自分が笑いながら吐く言葉は書き起こした瞬間に皮肉や陰気が際立ちがちで、「属性の割にSNSに向いていないな」と気づいた。
SNSについては、聞き手を確保する適性が薄いがために聞き手の存在があいまいで、おのずと抽象的/社会的/内省的なことしか書けなくなるのが悪いのだと思う。
最近思うのが、「2~3周回って、寡黙で、倫理感と共感性を発揮できる人間が一番イケてるのでは?」ということで、深入りするほどその像が遠のきそうでTwitterを控えている。
とはいえコミュ不足の時勢柄「なんか言葉を発したい欲」が溜まってくるもので、たまにブログでまとめて発散ができればいいなと思う。
このまま書き進めても自分が避けた話題の濃縮還元に陥りそうなので、焦点を外に向けたい。
最近は社会のジリ貧具合とは対照的にだんだん気候が良くなってきて、少し出歩くだけで爽やかな気分になれる。
それが高じて、買い出しのついでに好きなラジオを聞きながら大通りを30分ほど歩いて、飽きたらその道を帰ってくる、というようなことをしている。
ただ家路につながる大通りを往復しているだけなので、散歩にハマっていると言い張るには風情も発見もないけれど、自分が関係しようがないパーソナリティのしょうもない話を聞き流しながら、淡々と足を動かしているのが気持ちよくて意外と良い。
瞑想が上手くハマった時の感覚に近いのだと思う。
それを反響する相手や意義がどんどん少なくなって、濃いめの物語を読む元々の趣味が少ししんどくなってきたところなので、こういう気の保ち方が開拓できたのは嬉しい。
2019年に読んだ100冊を振り返り、オススメ15冊を挙げる
はじめに
相変わらず、思い出したかのようなブログ更新になりました。
今年は個人的に「年間100冊の本を読んで感想を書く」という目標を設定していまして、メモ帳やTwitterに書き連ねていた分、ブログにアウトプットする手間暇を割きにくかったのですが、結果、なんとか目標を達成することが出来ました。
今回は、そうやって積み上げてきたログの総括をやってみようかなという次第です。
構成はテキトーですが、今年中に読んだ本を全てリストアップした後、2019年の読書について振り返ろうと思います。
ちなみに、シリーズ・上下巻は各々1冊カウントしています(リストをチラ見していただければ理由は分かるかと)。
2019年に読んだ本(読んだ順)
- 『プログラムはなぜ動くのか』矢沢久雄
- 『みかづき』森絵都
- 『東京輪舞』月村了衛
- 『その日、朱音は空を飛んだ』武田綾乃
- 『砂の女』安部公房
- 『グロテスク 上』桐野夏生
- 『グロテスク 下』
- 『天才は諦めた』山里亮太
- 『エンジニアの知的生産術』西尾泰和
- 『立華高校マーチングバンド部へようこそ』武田綾乃
- 『BanG Dream!』中村航
- 『邪魔 上』奥田英朗
- 『邪魔 下』
- 『ナナメの夕暮れ』若林正恭
- 『死にがいを求めて生きているの』朝井リョウ
- 『ニワトリは一度だけ飛べる』重松清
- 『DEATH 死とはなにか』シェリー・ケーガン
- 『顔に降りかかる雨』桐野夏生
- 『天冥の標1 上』小川一水
- 『天冥の標1 下』
- 『天冥の標2』
- 『天冥の標3』
- 『天冥の標4』
- 『天冥の標5』
- 『天冥の標6 上』
- 『天冥の標6 中』
- 『天冥の標6 下』
- 『天冥の標7』
- 『天冥の標8 上』
- 『天冥の標8 下』
- 『天冥の標9 上』
- 『天冥の標9 下』
- 『天冥の標10 上』
- 『天冥の標10 中』
- 『天冥の標10 下』
- 『矛盾社会序説』御田寺圭
- 『アリスマ王の愛した魔物』小川一水
- 『ストレングス・ファインダー』ドナルド・O・クリフトン
- 『ディープワーク:大事なことに集中する』カール・ニューポート
- 『何者でもない』般若
- 『ホモ・デウス 上』ユヴァル・ノア・ハラリ
- 『ホモ・デウス 下』
- 『正義の教室』飲茶
- 『難しいことはわかりませんが、お金の増やし方を教えて下さい』山崎元
- 『手を伸ばせ、そしてコマンドを入力しろ』藤田祥平
- 『ある男』平野啓一郎
- 『三体』劉慈欣
- 『ままならないから私とあなた』朝井リョウ
- 『快感回路』デイヴィット・J・リンデン
- 『うそつき、うそつき』清水杜氏彦
- 『バッタを倒しにアフリカへ』前野ウルド浩太郎
- 『紙の動物園』ケン・リュウ
- 『ヒッキーヒッキーシェイク』津原泰水
- 『シーソーモンスター』伊坂幸太郎
- 『クジラ頭の王様』伊坂幸太郎
- 『麦の海に沈む果実』恩田陸
- 『なめらかな世界と、その敵』伴名練
- 『少女七竈と七人の可愛そうな大人』桜庭一樹
- 『堕落論』坂口安吾
- 『老ヴォールの惑星』小川一水
- 『王とサーカス』米澤穂信
- 『夢をかなえるゾウ2』水野敬也
- 『夢をかなえるゾウ3』
- 『光の犬』松家仁之
- 『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとだけブルー』ブレイディみかこ
- 『真実の10メートル手前』米澤穂信
- 『面白いとは何か』森博嗣
- 『生まれ変わり』ケン・リュウ
- 『最初にして最後のアイドル』草野原々
- 『寝ながら学べる構造主義』内田樹
- 『青い星まで飛んでいけ』小川一水
- 『自分の中に毒を持て』岡本太郎
- 『世界で最も強力な9のアルゴリズム』ジョン・マコーミック
- 『さよなら妖精』米澤穂信
- 『14歳からの哲学入門』飲茶
- 『どうしても生きてる』朝井リョウ
- 『Think clearly』ロルフ・ドベリ
- 『ワタクシハ』羽田圭介
- 『モモ』ミヒャエル・エンデ
- 『母の記憶に』ケン・リュウ
- 『読書について』ショーペンハウアー
- 『乱読のセレンディピティ』外山滋比古
- 『ゆるくても続く知の整理術』pha
- 『マネーボール』マイケル・ルイス
- 『Rの異常な愛情』R-指定
- 『デス・ストランディング 上』野島一人
- 『デス・ストランディング 下』
- 『カッコいいとは何か』平野啓一郎
- 『UNIXという考え方』マイク・ガンカーズ
- 『オブジェクト指向でなぜ作るのか』平澤章
- 『箱男』安部公房
- 『ヒップホップ・ドリーム』漢 a.k.a GAMI
- 『生き抜くための数学入門』新井紀子
- 『柔らかな頬 上』桐野夏生
- 『柔らかな頬 下』
- 『ゲームの王国 上』小川哲
- 『ゲームの王国 下』
- 『スタートボタンを押してください』ケン・リュウ(編)
- 『ライト、ついてますか?』ジェラルド・ワインバーグ
- 『折りたたみ北京』ケン・リュウ(編)
100冊について振り返り
プログラミング関係の技術書等でもう少し冊数は多いとは思うのですが、紹介してもしゃーない&メモが残っていないので、以上100冊になります。
まずリストアップした率直な感想としては、100冊分のタイトル&著者をタイピングするのは想像以上にダルかった笑。偉大なり、Ordered Listと予測変換。ミス等あってもご容赦ください。
さて、振り返りですが、まずは大雑把にジャンル分けしてみようと思います。その後、感想メモの文量が特に多かったモノを個人的ヒットと見なして、詳しく書いていこうと思います。
カテゴリ総括
- 小説:67冊
- エッセイ:9冊
- 専門書:14冊
- 新書、自己啓発書、その他:10冊
こんな感じでしょうか。正しさを求めるならレーベルで分類するのがいいのでしょうが、そこまで調べ直す気力が起きなかったので、やむを得ずその他枠が発生しました。
見返してみると、やっぱり小説が圧倒的マジョリティですね。特に今年はSFを32冊読んでいたようです(内17冊は天冥の標、恐ろしい)。
そこそこ数を読む中で、個人的には、物語を尋常の世界観から飛躍させて展開することで、逆説的に人間の関係性や精神、社会・技術・自然のあり方について読者に考察させるという要素がSFならではの一番の面白みだなと思いました。現実とかけ離れた世界観を構築するだけならいくらでも可能ですが、著者の科学的洞察によってリアリティを持たせやすい、というのがSFの強みでしょう。
近年SFというジャンルはサイエンス・フィクション以外にもスペキュレイティブ・フィクションという呼ばれ方をするようで、その意味では、Speculative(思弁的)とScientific(科学的)が高いレベルで調和している作品をハマりかけの時期にたくさん読めたからこそ、SFというジャンルの良さに気づけた気がします。
他のカテゴリだと、エッセイ本の面白さに気づけたのも去年の収穫ですね。
「よっぽどの名作でもなければ、作家や学者以外が書いた本を読んでもなぁ…」と昔は思っていたのですが、評判の良いエッセイをいくつか手にとって見るとこれが面白い。考えてみれば、人間が自分のキャリアや生活を文章にまとめているのだから、そりゃ面白いんですよね(もちろん、そもそもの文章力や著者への関心の大きさにも依りますが)。
他人の飾らない考え方や生き様、熱量を読み取る面白みへのアンテナが立ったのは、HIPHOPを好んで聞くようになったのも案外大きな理由かもしれません。HIPHOPは自己紹介の曲が多い、というのはよく目にする分析ですし。
後は、専門書、新書、自己啓発書その他で25%近くを占めている計算です。
このあたりは、その本から何を得られるか、という有益性の大きさが本の良さに直結してくるカテゴリだと思います。具体的に言語化するならば、「行動・思考に変化が及ぼされたか」「関連分野のより発展的な知識を受け入れられるようになったか」などの判断基準でしょうか。
その点を考慮してこのカテゴリを振り返ってみます。今までだと、知識欲や好奇心は満たせても、自分が変化したか?と問われると首を傾げざるを得ないことが少なくなかったのですが、翻って今年は以前よりも本から多くの栄養を摂取できた気がします。
これについては、今まで読んできた本がどうこうというよりも、自分の生活や本の読み方が変わってきたのが大きいかもしれません。
- 純粋に読書量の累積が増えたこと
- 読書とアウトプットが必ずセットになって、記憶に定着しやすかったこと
- ソフトウェアエンジニアとしての生活が短期的に安定して、時間的・精神的余裕が出てきたこと
- 仕事日記を書き続けて、自分の行動や思考をメタに意識する機会が増えたこと
ぱぱっと思い浮かぶ要因はこんな感じでしょうか。学ぶために読むジャンルと位置づけている以上、もしかすると学ぶ体制が整っていることは本のクオリティ以上に大事なのかもしれません。当たり前と言えば当たり前ですが。
個別ピックアップ
ざっくりカテゴリの総括が終わったので、小説、エッセイ、その他から数冊ずつ特に良かった本をピックアップしようと思います。
紹介は例によって読んだ順なので、優劣をつける意図は無いです。
小説
小説部門1冊目は桐野夏生『グロテスク』です。
エリートコースに進んだはずの高校の同級生が娼婦となった末に客に殺された、というなかなかパンチの効いた導入からスタートする本作。
ルックス、性愛、賢さ、反骨心、冷笑など、自分の一要素に過ぎないモノを人格と規定してしまい、それに縋る以外の生き方を知らないまま歳を重ねてしまった人間の、カビ臭い救えなさがとにかく印象的でした。
物語の顛末もとても印象的で、ひたすら俯瞰に努めていた主人公のタガが外れるシーンはおぞましくも爽快です。現代版寓話とでも言えるでしょうか。
とにかく、数百文字でカラッと要約するにはあまりにもドロドロべちゃべちゃした陰湿な物語で、孤独に陥る怖さに震えさせてくれます。友人や家族を大事にしようという気持ちが心の底から湧いてきました。逆説的ハートフル物語、というのは流石に無理がありますが……
2作目は小川一水の『天冥の標』シリーズです。
全10部にして計17冊の一大SF連作長編シリーズ。17/100冊を占めている時点でそりゃそうだろってツッコミが入りそうなくらいには順当な選出ですが笑。
ラフに紹介するならばSF群像劇版ハリー・ポッターって感じですね。かの不朽の名作を持ち出しても十二分に耐えうる素晴らしい大長編でした。
掻き立てられる好奇心と想像力、歴史的・空間的なスケールの大きさ、上位存在への畏敬や恐怖、スリリングな展開、キャラクターの関係性、タイトル回収ポイントなどなど、一冊の単編SFだとどうしてもこぼれ落ちてしまうエンタメSFの良さを余さず飽きさせずてんこ盛りにしたようなシリーズです。
話の本筋はドシリアスですが、サブエピソードの差し込み方が箸休めにちょうどよく、邦作なのも相まって、全巻並べた時の圧の割に断然読みやすかったです。
3冊目は『紙の動物園』です。ケン・リュウによるSF短編集ですね。
とにかく著者の引き出しの多さにビビらされます。読んだ後気になって経歴を調べてみました。以下WIREDより引用です。
中国・甘粛省生まれ。8歳のときに米国に移り、以降カリフォルニア州、コネチカット州で育つ。ハーヴァード大学にて英文学、コンピューターサイエンスを学ぶ。プログラマーを経て、ロースクールにて法律を勉強したのち、弁護士として働く。
付け加えるなら、プログラマとして入社したのはマイクロソフトだそうです。マルチタレントにも程がある。
また、著者は中国系アメリカ人ですが日本文化にも造詣が深く、本書収録の『もののあはれ』は日本人なら一読の価値ありだと思います。
著者の作品は本書が初めてだったのですが、宇宙や死、文字への洞察に何度も唸らされ、自然の神々しさに生で相対するのに近い読後感でした。読む高千穂峡(?)。これを読んだ後、気づいたら日本語で読めるケン・リュウ編著作は全部ポチっていました。
全編通して謙虚さと知性にあふれており、まさに科学的にして思弁的な作品でした。個人的には『もののあはれ』以外だと『紙の動物園』『文字占い師』『愛のアルゴリズム』『円弧』『1ビットのエラー』が好きです。
4冊目は『どうしても生きてる』 。朝井リョウによる短編集です。
本作は、主人公たちの造形の今っぽさやトレンドの咀嚼の上手さからくる説得力が読み応えに繋がっていますが、著者の強みである観察力が相変わらずキレッキレに働いているのだと思います。
内容ですが、「正論に則れない」「自分や他人に後ろめたい」「将来が不安」「本音を吐露できない」「誰にも苦労に気づいてもらえない」「とにかくハズレくじを引かされる」等々、各短編よくもまあここまで取り揃えたなと感嘆するような、バラエティに富んだ生き辛さが織り込まれており、ヨルシカとかamazarashiとか聞きながら読むと相乗効果でだんだん死にたくなるパワフルさでした。特に『流転』は刺さります…。
しかし最終編『籤』まで通して読むと、「人間を活かすのは、燃えるような情熱でも冷めきった惰性でもなく、瞬間瞬間の気力やたくましさ、しぶとさなのだ」というようなメッセージが読み取れて感慨深かったです。励ましにしては皮肉が強いですが笑。
ラスト5冊目はミヒャエル・エンデの『モモ』です。
少女モモが、灰色の男たちによって人々から盗まれた時間を取り戻すために奮闘するというあらすじの児童文学で、小学校の図書室で読んだことがある人も多いようです。
知人から勧められて読んだのですが、子供向けに書かれたとは思えないほど含蓄深い作品です。死ぬほど陳腐な表現ですが「むしろ大人こそ読むべき本」というやつで、現代社会に生きる人間にとっての時間とはどういうものかを強く訴えかけてきます。日本のサラリーマン全員が本書で語られるような考え方を持つことができれば、10倍くらい社会は豊かになるのではないでしょうか。
後に紹介する『Think clearly』と併せて、労働者の一人として資本主義を相対化する感性を養ってくれた一冊です。
エッセイ
続いてエッセイ部門1冊目は『ナナメの夕暮れ』。
オードリー若林のエッセイで、『社会人大学人見知り学部 卒業見込み』の続編のような位置づけです。充分単体で読めますが、前作を読んだ上で本作を読むとより楽しめます(キューバ本がどういう位置づけなのかはちょっと分かりません)。
そこまで数を読んできたわけではありませんが、若林のエッセイは他のものに比べても突出して内省的だと思います。省みる対象も、素朴な日常の出来事と言うよりは、それら出来事に対するマジョリティの人々と自分の間の感性のズレを俯瞰するようなものが多いです。
しかし前作と比べると、そのズレに向き合う姿勢がかなりポジティブになっている印象を受けます。著者は、40歳になってまで斜に構えていられない、という旨の発言をたまにメディアでしていますが、ひねくれを克服するまさにその過程が描かれているのが本作なのでしょう。
自他共が認めるひねくれ者の自分としても共感する部分がとても多く、楽しく読み終われました。
2冊目はラッパー般若の自伝『何者でもない』です。
本作については、少なくとも『フリースタイルダンジョン』程度には日本語ラップを知っていないとハマらないかもしれませんが、逆に言えばその程度の知識か関心があれば楽しめる本だと思います。
自分は『ダンジョン』で日本語ラップを知ったのですが、「なんでこの人がラスボスやってんの?」という素朴な疑問へのアンサー足り得る自伝です。「生き様でラップしてる」と称されるだけあって本書の熱量はかなりのもので、惹き込まれました。
また、これは本書の内容からは離れるのですが、「自分がどの媒体から一番感じ取れるか」というのを考えてみた時に、やっぱりそれは文章なんだなぁという気づきがありました。内容との直接の関係はありませんが、ラッパーの自伝を読むという結構特殊な体験を経たからこその観点だったと思います。読み物としてのクオリティも高いですが、そういった新鮮さも込で選出しました。
3冊目は前野ウルド浩太郎『バッタを倒しにアフリカへ』。
昆虫学者である著者が、サバクトビバッタの防除技術開発の手がかりを見つけるためにアフリカで奮闘するエッセイです。
「 アフリカに単身遠征するバッタ研究者」という数奇さで売れた本なのかなぁと思いつつ読んでみましたが、自分の中でノンフィクション史上一番と言えるくらい面白かったです。
著者の説明力は流石専門家といった感じで、バッタ問題の現状や解決した際のインパクトが臨場感を伴って伝わりました。加えて、経験をエモーショナルに書き上げる文章力も抜群で、実績を挙げて常勤ポストを勝ち取ろうともがく著者の姿は素直に応援したくなります。
また、全編の文章を通して、著者の中で科学者として当たり前になっているのであろう仮説検証の考え方が現れているのを感じられて、これが研究者の思考回路かと新鮮な気持ちで読み進められました。
4冊目はブレイディみかこ『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとだけブルー』。
著者がハーフの息子とのイギリス生活を通して、多様性、他者へのエンパシー(共感)のあり方を考察するエッセイです。
この本を選出した理由は他と毛色が違って、「読んだ後に反論したいことがたくさん湧いてきた」というものなのですが、自分の良しとする多様性について考える機会として印象強かったという意味ではオススメの一冊です。
本書の大筋は「マイノリティに対するエンパシー」を重んじよう、"他人の靴を履いて"みようという素朴な主張だと思うのですが、それを伝えようとする著者の視野が無垢すぎて頷けないところが大きかったです。
「寛容のパラドクス」なんて言葉も聞いたことがありますが、不寛容な人々に対する著者の無自覚な不寛容性が文体から感じられてしまいます。異物を排除する社会の中で"快適に育ってきてしまった"人たちに多様性を尊ぶことを求めるのは無理な話ではないでしょうか?
そういう不愉快な現状を受け入れた上で試行錯誤しながら、個人レベルで自省と実践を繰り返していくことでしか、人々が真に寛容さを発揮する社会は作れないのではないかと自分は思いました。
もちろん、(自分を含めて)人間が自らの価値観を100%俯瞰するのは原理的に不可能であり、その前提のもと可能な限り嫌味っぽくならないように配慮を巡らせているのは読み取れましたし、純粋にイギリスで暮らす一家のノンフィクションとしては楽しんで読めました。
その他
その他部門と称するとスゴく雑な感じが出ますが、1冊目は矢沢久雄『プログラムはなぜ動くのか』です。
OS、メモリ、CPU、バイナリなど、ITに携わらずとも一度は聞いたことのあるであろうコンピュータの基礎についてとてもわかり易く書かれています。基本情報技術者試験に臨むにあたって、参考書の前に本書を読んでいたのはかなり合格に寄与したなという体感がありました。
ソフトウェアの仕組みに興味があって、知識を学んでみたい、というような人におすすめできる本だと思います。
2冊目は『世界で最も強力な9のアルゴリズム』です。英ディッキンソン大学のコンピュータ・サイエンスの教授ジョン・マコーミックが門外漢向けに現代のITの基盤となっているアルゴリズムを紹介します。
アルゴリズムといっても、データ構造とアルゴリズムの講義で学ぶようなものではなく、Google検索や暗号化、圧縮など、日常で使われるITサービスに直結したものがメインなので比較的馴染み深いと思います。
本書でとにかく凄いのが、全くの素人でも分かるようにほとんど専門用語を使わずに解説をやりきっている点です。「こんなのどうやって達成するんだよ?」という問題を鮮やかに解決するアイデアを、丁寧に順を追って説明してくれるので、まさに腑に落ちる感覚が味わえます。
3冊目は飲茶『14歳からの哲学入門』。
その名の通り、砕けた文体で哲学者たちの主張を解説する入門書です。表紙の意図は謎ですが、今まで読んできた哲学入門書の中では一番わかり易い&面白かったです。
本書は哲学史をなぞっていくような構成になっているのですが、各哲学者の主張が、どのような点で前代の通説へのアンチテーゼとなっていたのか、というポイントを特に注力して書かれているので、思想の流行り廃りの流れがよく分かります。
また、各学者の各論の面でも、テンプレ的に主張を解説するのではなく、「一見トンデモっぽい部分がその学者の主旨に対してどのような意義を持っているのか」等までカバーしてくれる、痒いところに手が届くような構成になっていて好感が持てます。
個人的には、流行と超克という本書の構成に則ってポストモダンの哲学に著者が切り込む終章の伏線回収感がアツくて好きです。
4冊目はロルフ・ドベリ『Think clearly』。
まあ陳腐なジャンルだとは思いますが、これが読んでみると意外と新鮮で面白かったです。「良い人生が何かはわからないが、良くない人生の要素に逆張りすることはできる」という著者のスタンスや、全体的に地に足がついていて省エネ志向な雰囲気は、押し付けがましくなくてオリジナリティが有ったと思います。
自分が日常の中で言語化せずとも考えていたことの一部がTips集としてまとまっていた感覚でした。
個人的には、立ち読みの重要性を再認させてくれたという意味でも印象に残っています。アレな本かなと疑いながらも暇つぶしに斜め読みしてみると、意外と良いことが書いてあって、見た目や売り方だけで判断するもんでもねーなと思わされました。
5冊目はpha『ゆるくても続く知の整理術』です。
著者の経験則から抽出したラクして勉強するためのガイド本で、いかに勉強を習慣化するかという方法論を紹介しています。
タイトル通りのゆるい雰囲気で紹介される方法論は、徹底的なやる気への諦観とロジカルさに裏打ちされており説得力があります。そのギャップを感じるだけでも面白みがあるかもしれません。
本書と『Think clearly』は特に、上述のような心持ちの変化が有ったからこそ楽しめた本だったと思います。平穏な向上心とでも言いましょうか、期待しすぎず冷笑しすぎずのバランスを保ち、使えそうな知恵は取り入れるという姿勢がキープできるようになったのは我ながら感慨深いですね。
個別ピックアップラスト、その他部門6冊目はジェラルド・ワインバーグ『ライト、ついてますか?』で、問題発見の人間学という副題の通り、問題解決という営みそのものについて論じた本です。
ロジカルシンキング等具体的な方法論について語っているというよりは、問題解決に当たる際の心構えを説いた本ですね。
「問題とは理想と現実認識の差異である」という言葉の定義に基づいて、問題のあらゆる側面(現状認識、理想定義、原因、関係者、解く必要性等)をメタに考えることから良い問題解決が生まれるのだ、ということを著者は伝えようとしています。
問題解決は本質的にメタ思考が要求される、という立場からの主張は、書籍として新鮮かつ自分の考え方に近く、興味深く読めました。
終わりに
最後に、この100冊チャレンジをやってみた感想そのものについて書いて、過去最長の本記事を締めくくろうと思います。
このチャレンジ、「読んだ冊数マウンティングは巷でよく見るけれど、ぜーんぶ記録に残してきたような奴っているのか?いねぇだろ??」というよくわからない仮想敵への反骨心から始めたのですが、終わってみればとてもやってよかったです。
まず、様々な本に対して、率直な感想、面白かった/つまらなかった点とその理由、読後の考え等を言語化するのを1年間継続したことで、自己理解、文章の要点を読解する力&それを要約する文章力がそこそこ深まった気がします。
今後の課題?も見つかりまして、好みのタイプの文章や主張の輪郭は鮮明になった分、自戒やアンチテーゼになってくれるような本があまり読めていないというのも16冊の後半7冊を選出する中で強く感じました。もちろんエンタメとしての読書ならそれで良いのでしょうが、一応目的意識を持って読む本もある以上気にかけたいところです。これは多分この記事を書かないと気づけないポイントでしたね。
あとは副作用的に、本の読み方が効率的になりました。本は通読しないと気持ちが悪くて読んだと言えないタチだったのですが、サラリーマンやりながら100冊という数を稼ぐためには、つまらない本は斜め読みして途中で閉じる勇気が必要でした笑。『読んでいない本について堂々と語る方法』という本をブログで紹介したことがありましたが、そこで述べているような態度を修行を通じて体得したような感覚です。
また、この振り返りまで含めてやりきったことで、自分が読んできた本が全て一覧化されたのも楽しかったですね。日記代わりのライフログのような感じで、自分の足跡が外部に積み重なっていくのはシンプルに気持ちよかったです。
ただまあ、冊数を目標として本を読むのはもうやらないつもりです笑。というのも、単純に重たい本に挑戦する気持ちが萎えるからです。今回のチャレンジで計算すると1冊/3~4日のペースで本を読み続ける必要がありますが、その中ではハードカバーの専門書は必然的に後回しになりました笑。毎回言ってる気もしますが、骨太な作品への挑戦を増やしていきたいですね。
さて、振り返ってみるとかなり多くの発見がありましたが、とりあえず2020年は、記録は継続しつつも気張らない読書を楽しみたいと思います。
ここまで読んでくださりありがとうございました。友人知人それ以外の方も、よかったら反応くれると嬉しいです笑。