学生読書日誌

ハッピーヘブンのふきだまり

主に読書感想文をかきます

家族の一面

舞台裏

自分の身の回りでは依然としてリモートが主流。

飲み会も会社も同居している弟の講義も、9割Zoomを介して行われている。

 

ところで、共感してくれるかどうかわからないけれど、特に中高生時代、友達と話しているときの自分を家族に見られるのがなんとなく嫌だった。

逆もしかりで、母親の声が身内以外との電話で突然ハイトーンになるのを聴くのなんかも、どこか気恥ずかしかった。

ペルソナとか分人とかそれを指す表現は色々あるけれど、人に接する態度のギャップの存在が露呈する瞬間が苦手だった。

実際、結構一般的な感覚だろうと思っているが、体感としては、その居心地悪さが充分に市民権を得て、あるあるネタとして共有するのが許されてきたのはここ数年のことだと思う。

ユングが外的人格をペルソナと表現したのが20世紀半ばのこと。

”付け替え可能な仮面としての人格”という概念が提唱されてから、そこに伴う小さなもどかしさがカジュアルに通じるようになるまでは、だいぶ時間がかかっている気がする。

もちろん、そもそも言及された文脈が日常生活とは違うので一概には言えないが。

 

話を戻すと、家族の被る仮面の内側を暴くのが昨今のリモート○○の隆盛だ。

それまでは基本的に、時間と空間を共有している相手だけが自分の外面を認識できていて、家族も例外ではなかった。

しかし、家で大半のコミュニケーションが行われるようになると、同居人には大半の外面レパートリーがバレてしまう。

ペルソナの語源は古典演劇で役者がかぶっていた演技用の仮面らしいが、まるで家族が「部隊の観客の一人」から「同じ座組のスタッフ」になったような感じがする。

パワーバランスが兄である自分に偏っているからか、はたまたこんなブログを書き続けてきたのが幸いしたのか。自分の仮面レパートリーが赤裸々になるのはもはや気にならなくなったが、逆が未だに慣れない。(弟がガチボッチなのよりはマシか)

 

まあ各々の個室があれば別なんだろうが、そこは若手サラリーマンの悲しさ。

巨額の固定費の増加に踏み切るには、いまひとつ口座残高と蛮勇が足りないのである。