学生読書日誌

ハッピーヘブンのふきだまり

主に読書感想文をかきます

『完全教祖マニュアル』 今こそ、プログラミングでも投資でもなく、宗教を学ぼう

また、 日本人の宗教アレルギーは、逆に考えると、付け入る隙であるとも言えます。というのは、彼らは宗教を頭ごなしに嫌うあまり、宗教に対して無知なのです。
(中略)
知識がないということは、つまり、耐性がないということです。彼らは無菌室育ちで免疫がないのですから、これは狙い目というわけです。

儲と書いて信者と読むのか

ちょっと前、オンラインサロンやら情報商材やらのビジネススキームが話題になりました。
運営者の言説に応じて盲信的に身を滅ぼしかねない行動をとるユーザーを揶揄して、「宗教団体じゃん」「教祖化してるな」といった批判を口にする人も多かった印象です。

しかし、そもそも宗教って何でしょうか。
なぜ「教祖」という言葉が「甘言で人々を騙して金を巻き上げる詐欺師」というレッテルとして機能しているのでしょうか。
また、これほど悪評が定着している(ように見える)のに、「カリスマ的個人のありがたいお言葉に課金する」という構造が定期的に盛り上がるのはなぜなのでしょうか。

暇を持て余してそんなことを考えていた折に『完全教祖マニュアル』というベストマッチな本を見つけたので、ここで感想を書いてみようと思います。

先にべた褒めしておくと、今まで読んだ新書の中では一番面白かったです。

キミも教祖になろう!

この『完全教祖マニュアル』、一番面白いのが「いかにして新興宗教の教祖になって幸せになるか」を説いたハウツー本という点です。

ちくま書房から出版されていることから窺えるように、本書の実態は宗教を丁寧に解説する新書なわけで、上述の「教祖とは」「信者とは」「教団とは」という疑問にも、明瞭かつ正確に回答を与えています。
ちなみに、参考文献がマジで100冊近くあって少し引きました(笑)。
しかし著者自身は、序文からあとがきまで一貫して"教祖ハウツー本"という視点を死守しており、それゆえに生まれる読み味は、数多ある解説書とは一線を画す異常な雰囲気を醸し出しています。

また、そんなユニークな著者のスタンスが、独自のギャグセンス&キレキレのブラックユーモアにつながっており、ぶっちゃけ宗教に興味が無くても楽しく読めます。
解説が知識として興味深いのも勿論なんですが、随所に差し込まれるナナメからの痛烈な皮肉が笑えます。
読んだことのない人には恐縮ですが、『サピエンス全史』の筆致が楽しめた人には刺さると思います。

具体例を挙げるとこんな感じでしょうか。

社会的な視点から見れば、仏教なんて本当にろくでもない宗教です。出家は社会との関係を断絶して閉じこもるわけですから、まったく生産性がありません。その上、家族すら捨てるのだからニート以下と言っても良いでしょう。 仏僧はニート以下!

あまりにも唐突な罵倒の復唱ですね。イジり倒してます。現職の方に怒られないのか?

この辺も(堂々と笑っていいのか不安ですが)エッセンスを深く分析しているからこそのゲスな比喩で、著者の文才を感じます。

宗教行為が傍から異常な目で見られたとしても、それが悪いというわけではありません。信者がハッピーならそれで良いのです。オウム真理教も犯罪行為があったからこそ問題になったわけですが、麻原氏の風呂の残り湯を信者に販売すること自体は問題ではなかったのです。アイドルの残り湯なら金を払ってでも飲みたいという変態的男性諸君も少なくないでしょう?それと同じことです。

麻原彰晃の残り湯ビジネス、案外巷に溢れている気がします。
まあ自分も、人のことをとやかく言えるほど生産的な人間ではありませんが……。

この辺はもう解説もクソも無いですね。

本書の読者から続々と感謝のお手紙が届いております!
「人生が一変した!」 一ノ瀬謹和さん(二伍歳)
(中略)
「わずか一カ月で信者が三倍に!」 前田雄亮さん(五二歳)
(中略)
「神の意志を正しく伝えられた!」  脇雄太郎さん(三三歳)

この後のあとがきが名文だったのですが、それを一切予感させないチープさ。
遊び心満載です。

こうした読者の世俗的感覚に寄り添うユーモアも、現代日本の読者が教祖になるためのハウツー本という体裁を保っているからこその特徴だと言えるでしょう。
解説書という看板を背負っていては、ここまで振り切れないと思います。

皆さんは何を信じますか

もう一つ特に良いなと思った点がありまして、「信仰」への健全な向き合い方について示唆を与えてくれるところです。

これが最も濃く表れているのが第4章の「教義を進化させよう」で、ここでは科学的体裁をとることが信者の獲得に有効であると論じられています。

科学は、確かに頭の良い人たちが一生懸命試行錯誤して辿り着いた知恵ではあるでしょう。しかし、その科学を利用する私たちは、別に頭が良いわけでもないし、一生懸命試行錯誤したわけでもないのです。科学自体は論理的かもしれませんが、私たちは非論理的に科学を信用し、それを利用しているのです。非論理的な信用は、つまり「信仰」ですよね。この意味で、科学は確かに宗教であると言えます。しかし、私たちはしばしば科学を「信仰」していることを忘れ、絶対的真理であるかのように錯覚してしまいます。 普通の人は科学であるというだけで頭から信頼します。

「我々にとって最も身近な宗教は"科学教"である。」
とても陳腐な表現ですが、本章の議論を深堀していくことで、物事の蓋然性(確からしさ)に自覚的であることの難しさについて気づかされます。

あらゆる情報に対して完全に科学的態度を取ることは現実的に不可能です。
どれだけその確からしさを遡っても、その情報が述べる現象を自分で再現できない以上、どこかで権威に依拠する(信仰に陥る)ことは避けられません。
つまり、人間が情報を消費する上で信仰を排するのは無理なのです。

上記の通り、「物事の仕組みや情報の正しさについて確定することができるという観念はドグマであり、科学や人間の知性に対する“無自覚な信仰”である」と著者は喝破しています。
要は程度問題であり、科学への信仰が内面化されてしまっていることを自覚して、情報の蓋然性を無理の無い範囲で求めるのが、フツーの人が採用しうる知的な態度と言えるのかなと考えさせられました。

また、こうした、人間の営みをメタ分析する文章を読んでいると、「信仰に批判的な筆者自身は果たして信仰から距離を取れているのか?」という懐疑が必然的に生じるかと思います。
そうした疑問に対しても、「新しい世界の解釈を与えることで人々をハッピーにするのが宗教」「本書は蓋然性の高い情報を編み上げて宗教的概念に対する解釈を提供したものであり、これもまたひとつの宗教と言える」とあとがきで留保を残しており、その姿勢にとても好感が持てました。

単に宗教をイジリ倒しながら解説するだけの文章ならば、ネットにも少なからず挙がっているでしょう。
しかし、そこからさらに一歩進んで、著者自身が宗教・信仰というモノをどう考えているのかというスタンスまで書き切って、自然と読者を内省に向かわせる誠実さが、本書における白眉だと感じました。

読み味の楽しさと痛快さ、内容自体の興味深さ、著者のスタンスの真摯さと、どれを取っても指折りの良い本だったので、興味を持ってくれた方はぜひチラ見してみてください。