学生読書日誌

ハッピーヘブンのふきだまり

主に読書感想文をかきます

ヒゲ脱毛に行き、若林正恭『完全版 社会人大学人見知り学部卒業見込』を読んで、感性について考えた

清潔感をカネで買う

土曜日、湘南美容外科のヒゲ脱毛コースの初回を受診してきた。

生々しい話になって申し訳ないんだけれど、思春期以降濃くなり続ける自分のヒゲに辟易していた。
直近では在宅勤務のおかげで人と会う直前にだけ剃ればよくなったのだが、朝から予定がある日なんかだと、家を出る前に処理しても帰宅する頃にはしぶとく先端が顔をのぞかせている有様だった。
自他共に認める悪人面なので整えれば似合わないことも無さそうだが、伸ばすとなると日頃のケアが必須になるだろう。
そうなると、社会に許される程度の清潔感を維持するコストがかえって増してしまう。余談だが、イスラム圏だと成人男性がヒゲを生やしていることが文化的通念らしい。
清潔感。
この曲者にはいくつかの文脈で散々悩まされてきた。
こいつについて深入りするつもりはないが、まあ悪人面の男性が無精ひげを顔に残した状態に清潔感を見出すことは困難であろう。

こんな悩みを抱えていた折に友人と話すと、その友人も同じようにヒゲの処理に悩みを抱えていたらしい(もっとも、彼の悩みは単に手間がかかるのが嫌だというだけだった)。
話の中では、昨今の20代の中では案外広く市民権を得ているトピックだということもわかり、半分ほどかかっていた自意識のブレーキもパコンと外れてくれた(とはいえ、この投稿をカフェで書いている状況はだいぶ恥ずかしくて、隣に人が座ったのでブログ投稿欄直打ちからコーディング用のエディタに切り替えた)。

そんなこんなで、Webサイトの料金表とカード利用残高を視線で反復横跳びした末に、エイヤの気持ちで入会してきたのである。
鼻下/顎/顎下3部位おまとめの計6回コース、占めて3万円強である。決して安くはない金額だ。
こういうことは、どうせやるなら年齢的にも時間的にも大学生の内に済ませておきたかったが、当時の自分がヒゲのために3万円ポンと出せたかと考えると多分NOだろう。

ところで、美容外科でヒゲ脱毛してもらうことと、服を買ったり美容院に行ったりすることは、ルックスの問題という点では一見近い分野の話にも思えるが、後者には趣味性というかポジティブな性質がある反面、前者はコンプレックスや悩みの解消のための出費であり、モチベーションの源泉が異なっているように思う。
ヒゲ脱毛6回コースと同じくらいの額の服や靴を購入することはたまーにあるわけだが、その際の欲しかったものが手に入った喜びと脱毛コースを受診した時の浮つきは、現に異質な感情だった。
目指す方向も生じるコストも同じであるにも関わらず、プラスを重ねる/マイナスを埋めるというアプローチの違いによって感情の動きが変わるというのは、あえて着目してみると奇妙だ。
自分の浮つきを深堀りしてみると、ある種、何かの特権にアクセスできてしまったような感覚だった。
この不思議な感覚がどういうメカニズムで生じたのかを考えながらつらつら書いてはみたものの、ちょっと答えは出そうにない。
オフィス街のビルの高層階という立地かもしれないし、そんな立地にも関わらず非常に混雑していた待合室の雰囲気がそうさせたような気もする。

ちなみに、脱毛の施術は予想以上に痛かった。
意志を強く持てば耐えられる範疇の痛みだったので、麻酔オプション2000円の追加出費は避けられた。
やっぱり貧乏性はそう簡単に治りそうにない。
……ああ、今わかったけれど、上で書いた特権意識って単に貧乏性の現れだわ。
モノとそれが提供する価値は買わないと手に入らないが、日常に生じる手間を省くためだけに金をかけることにセレブリティを感じていたのかも。

あまり核心を突けてはいないような気もするけど、沼にとらわれる前に切り上げることが出来るのが随筆の良さだ。
堂々巡り終わり。

再読して価値観の差分をとる

いざ腰を据えて考えてみると、自身の金銭感覚そのものにメタ的に無自覚だったとわかる。
自分の内面に根付いてしまっているものは、外から刺激を与えてやらないとその輪郭が掴めないものだ。
そんな感じで、昔読んだ本をもう一度読んだりしてみると往々にして当時とは違う発見がある。

脱毛に行った帰路で、お笑い芸人オードリー若林正恭の著作『完全版 社会人大学人見知り学部卒業見込』というエッセイ集を読んだ。
再読だ。

本書は、M-1グランプリで一気に日の目を浴びて芸能で食っていけるようになってからを自分の社会人生活の始まりだと称する著者が、社会に入門してからの数年で感じた世間とのギャップや自意識の変遷を書き綴ったエッセイである。

1回目に読んだのはそれこそ3〜4年前の大学時代で、その時は深夜ラジオなんて全く聞いてもおらず、気楽に読めて面白いような本を漁っていた最中にネット上の評判を読んで手に取った本だった。
著者のバックグラウンドを殆ど知らない状態でこのエッセイを読んだものだから、個々のエピソードで登場する具体的な番組名や人物名はあまり記憶に残っていない。
イジられる趣味と市民権がある趣味の違いや、飲み会や恋愛への苦手意識、グルメやゴシップへの興味の薄さなど、著者が社会との溝に感じるもどかしさそのものに共感しながら読んでいた覚えがある。

今回は社会人も4年目に差し掛かる状態で読んだわけだが、当時とは面白みを感じるポイントが結構様変わりしていた。
『オードリーのオールナイトニッポン』を聴くようになって著者の歴史や環境への解像度が高まったことで、1回目ではわからなかった個々のエピソードの詳細がなんとなーく読解できるようになり、昔よりも1篇1篇を楽しむことができた。
その一方で、本書の全体的なテーマとしてあった社会に対する斜に構えた視線やわだかまり、そこに対してどう向き合っていくのが良いかという葛藤なんかには、初回ほど共感できなくなっていた。
共感できないというか、内容に納得はしても「まあ社会ってそういうものだよね」と俯瞰で読む部分が多くなっていた。
主観的には社会に対する考えそのものは大学時代から大きく変わっておらず、処世術が多少上達した程度の自己認識だったのだが、そういう形式的な変化は内面にも変化を及ぼすのかも知れない。
また、M1前後の貧乏→裕福という変化が起こす感情の動きの話なんかも印象強さが全然違った。
まあ就職前後でそこにアンテナが生まれたこと自体は至極自然だろうけども、金銭感覚のギャップを文章に起こしてみようと思ったのは、この再読でその項に面白みを感じた自分を発見したからだ。
そういう意味では、脱毛に行ったその足で本書を再読することにした自分の行動の流れはよくできた偶然だった。

再読についてあんまり気づきたくなかったポイントでいうと、個々の話で出てくる人物の年齢を強く意識する自分がいた。
著者やその周りの人達が、何歳の時にどんな思想を持っていて、どんな経験をしていたのか。
加齢と共に他者の年齢を気にすることが増えたというのは、"若者"というレッテルを免罪符として社会生活を生きようとしていた自分がいる事の証明かもしれない。
可処分所得にしても、立ち振舞にしても、価値観や責任にしても、若いということで多めに見てもらえることは数え切れないほど多いだろう。
30歳くらいになって振り返るとそれこそまたガラッと感じ方も変わるんだろうが、若さというパスポートを失う過程で、そのステージにたどり着くまでにドロップアウトしてしまわないかが不安だ。

再読しても感じ方が同じだった部分ももちろん多くて、著者の自意識の手なづけ方に関するエピソードの多くは、初読当時とあまり変わらない読後感だった。
外面的な行動/言動の変化のスピード感に対して、内向する際の思考の道筋や傾向なんかは数年程度では変わらないということなのかも。
三つ子の魂百まで、とはよく言ったもんだ。

感性の可塑性と不可侵性

もう一つ、本書を再読していて感じた変化がある。
最近まで、他人のファンであることをダサいと感じていた自分が、本書を再読してふと「ああ自分は著者のファンだな」と自然と認められるようになっていた
別にファンである対象は何でもよくて、自分に対して"ファン"というラベリングを許すかどうかの話である。

なんでまたこんな思想を持っていたかと振り返ると、「人のファンであるということは、自分と直接的な関係のない人格に対して好ましい感情や肯定感を抱くことであり、それは個性/価値観の外部委託なのではないか?」というような懐疑を抱いていたためだと思われる。
要するに、ファン=信者、信者=ダサいという三段論法が自分の中にあった。
それは多分、サブカルチャーの渦中に身を置きながらも、そういう環境にありがちな"推しは正義"みたいなこと(オタクどうしの内輪ノリ以上の真実味を感じさせるものだった)を嘯く人たちに、漠然とした気持ち悪さを感じていたことが大きかった。
今となっては、そういう人たちがそういう発言をしていたのにもまあ色々背景があるのだろうと配慮を巡らせる余裕がある。

そういう諸々を全部まとめて相対化して、自分の懐疑は杞憂だということを実感できたのが、本書を再読して得られた一番大きな収穫だった。

書いた人間の価値観が色濃く現れた文章を、その人のファンになる前後で期間をあけて再読する、という体験は初めてだが、感想が全く変わる部分、部分的に変わる部分、変わらない部分と、その読み味は想定以上に多様だった。
そして、それらの感情の動きは、自分が著者に対して抱く親近感などには左右されてはいなかった。
それらを規定していたのはむしろ、自分がどのような経験をしてきたかという点だった。
これは、上述した自分の疑念への反証たりうるのだ。
何が言いたいかというと、本書に描かれた著者の価値観について自分がどう感じるかという物差しは、自分が著者のファンになった前後で歪んだりしていないということを初読と再読の感想を比べることで実感できたのが、人のファンであると認めるのが怖くなくなった理由なのかなと思っている。

少し飛躍するが、それを踏まえて「自分が好意を持っている他者から受ける影響も、所詮生きていく中で外部から受ける多様な影響のうちの一つに過ぎない」なんて風に言えるかもしれない。
その人を好きであろうがあるまいが、人は生きていく中で他者の影響を受けて緩やかにその価値観を変化させていくものだ。
そして、"拭いえない唯一絶対の影響"なんてものはそうそう存在しないのだから、他者から影響を受けること、まして「誰々が好き」なんて言うことを恐れる必要はない。

確かに、ある人間から受ける影響や、その価値観に対して感じるモノの多寡は、その人格に抱く関心によって増減することもあるだろうが、それは程度問題に留まるものだと自分は思う。
何を感じて何を感じないか、という感性そのものを決定づけるのは、不可逆的な経験をおいて他にはないのではないだろうか。
それは、他人への関心や好意の有無よりもよっぽど確固としたものだろう。
そんなオリジナリティを見出して、言語化できたような錯覚を抱いていることを、少し嬉しいと感じる。