学生読書日誌

ハッピーヘブンのふきだまり

主に読書感想文をかきます

自分探しは"病気"なのか?

久しぶりの更新である。
なんだかんだ、年度明け以降ざっくり2週間以内くらいのペースでは更新を継続していたという自分に驚き。緩く長く続けていきたい。

相も変わらず就活中で都内にいるわけだが、早朝の時間潰しにファミレスで読んだブログ記事が面白かった。
http://globalbiz.hatenablog.com/entry/2016/01/09/000858
筆者の方は日系メーカー→外資系企業のキャリアを踏まれているようで、貼らせてもらった記事以外にも、組織論やキャリア観の領域で含蓄深い事を書かれている。(自分がそれらを十全に活かしうるキャリアを積めるかどうかは置いておく)

今回は、当該ブログの上記記事を読んで考えた事をつらつらまとめようと思う。結果としては反論の形になるが、大いにぼくの主観と経験則に基づくものである点をご容赦いただきたい。もし読んでくれた人がいたら考えを聞かせてくれると嬉しい。


以下引用。

「自分探し」というのは、いまを生きる人の宿痾のようなもので、みな多かれ少なかれ人生において「自分らしさ」というやつを追求しようとしてしまう。でも残念ながらこの追求はどこにも行き着かない。なぜなら、「自己」というのは、それ自体で存在するものでなく、他者との関係性によって規定され、浮かび上がってくるものだから。

アキコのセリフが泣けるのは、彼女がこのことに改めて気づき、素直な気持ちを吐露しているから。漫画が描きたい、なんとか売れたい、こう願って先生のことを忘れて東京で仕事にのめり込む作者。でも、彼女は先生の死に触れて、自分の存在が先生との関係を通じて構築されていることに気づく。師匠である先生が最後まで言い続けた「描け」という激を通じてこそ、漫画家としての彼女の存在が立ち上がるのだということを。

「実存は本質に先立つ」のではなくて、我々の主体は関係性(システム)によって規定されているのだと構造主義は主張し、サルトル実存主義)の息の根を止めた。けれど、我々の社会では、いまだに自分探しによって「ほんとうの自分」にいつか辿り着くのだ、という神話が流通している。その先は袋小路でしかないのに。

以上引用。


筆者は読まれた漫画についてこうした考察を述べている。

だがぼくの考えとしては、自己が周囲の関係性に規定されることを根拠にして自分探しを"気の病"として斬って捨てることはできないと思う。

ここで言う自分探しとはつまり、個人で完結しうるアイデンティティの追求であり、なぜそれを行うかといえば、結局、自分の人生に価値を見出せていない状態をどうにかしたいと感じるからだろう。

言い換えれば、昨今話題になる自分探しの本質とは、各々の個人がそれまでの他者関係や経験を省みたその上で、「これからどのように生きていけば自分は満足できるか?そのための指針はどこにあるか?」という未来志向の改革意識なのではないだろうか。

おそらく筆者がいう自分探しは、「これまでの自分がどんな存在であったか」という意味での過去に目を向けた営みであって、その視点においては確かに独立確固とした自己像などは存在しないのかもしれない。人間は社会的動物であり、他者との関係無しに生きてきた人間などあり得ない。その観点無しに過去の"自分"を探すことは確かに不毛だろう。


だが、「これからの自分がどう生きていくべきか」というスタンスを取る視点においては、その人なりのロールモデルとしての"自分像"を定める営みはあって然るべきだ。

なぜなら、他者が「これからの自分の人生にどのように関係してくるか」は全く不確定の要素だから。

もちろん、ぼくのいうロールモデルとしての"自分像"を探していく上では、繰り返しにはなるが、過去の自分が他者との関係性によってどのように構築されてきたかという視点で考えることは必要不可欠だ。


今までをみるか、これからをみるか。

自分探しという言葉には二方向への視点が存在し、後者について考えうるのは自身という主体にしかなし得ないことではないだろうか。

自分探しで"病んで"しまうのは、この二方向の視点をごちゃ混ぜにしたまま自己分析を行うという取り組み方の問題だと言えよう。


もし健全な自分探しの手法において袋小路に陥ってしまうことがあれば、他者の視点からの意見に示唆を求めるのも大いに有効だろう。

だが、自らの人生を全うしてくれるのは自分以外他ならないのであり、どれだけ他者に影響を受けようとも主体者としてハンドルを切れるのは自分だけであり、そこでの能動性は忘れてはならないと思う。


メモからコピペしたらフォントが崩れた。 ごめんなさい。