学生読書日誌

ハッピーヘブンのふきだまり

主に読書感想文をかきます

イモムシがサナギになった話

最近、とにかく物事への興味・関心が薄れてきた。虚無とは違う無気力という感じ。

良くも悪くも感情の動きが凪いできたといった感じで、過去の自分の言動やブログ記事を振り返ってみると、どうしてあんなにも劣等感や羨望や攻撃性を燃やし続けられていたのか不思議なくらいである。

この土日は意図的に暇を謳歌しているので、せっかくだし考えていた原因を言語化してみようと思う。

 

一番考えやすいところとして、現在の職種柄「周りを意識している暇があったらスキルアップだ」というような規範意識が常にあるのは原因のひとつかもしれない。エンジニアとして働くことになり、それなりに向いてはいるのだろうけどいかんせんベースが足りな過ぎて、余計なことを考える暇があまりない。

 

社会的な変化としては、少なくともこれまでのコミュニティのように数年が経過すれば是が非でも次の環境に放り出される、というような、将来に対しての、いい意味では可能性、悪い意味では不確かさのような幻想に終止符が打たれたことも大きいだろう。

これからの人生、何かしらの転機を求めるのであればそれなりの能動性が求められる。何者でもないから何者かになれるはずだ、という若気が醸す蜃気楼みたいなものが霧散し、事実として社会の中でひとつの役割を充てられている。

 

また、定期的な収入源を確保したことで、少なくとも自分が想像できて、かつやりたくなるような贅沢くらいなら、わりと初任給でまかなえてしまうことに気づいた。

これがどういう心境を招くかというと、自分のためだけの生活なら、今後ほぼ何の努力も必要ないことがわかってしまうのである。だってそうだろう。物欲、見栄、家庭といった、昇給を目指す動機の一切が存在しないのだ。今後それがどう転ぶかは誰にもわからないし、今はそうとしか思えないという話ではあるが。

もちろん、金銭的な心配をしなくて済むのは素晴らしい。親の無い袖を賽銭箱前の鈴のように振り回すのは精神衛生に良くない。自立している感覚は、少しだけ自分をタフにしてくれる。

 

より抽象的な意味での変化としては、人をあきらめる勇気を持てるようになった。

入社してからの人間関係は想像していたよりもわりとダルく、ここで悪口を書き連ねても無益なのでやらないけれど、まあ一苦労した。

しかし、そんなこんなでグダグダとやっていく中で、怪我の功名的に、他人と自分の心的距離の取り方を学んだ側面がある。

「他人と過去は変えられないが、自分と未来は変えられる」という言葉がある。不愉快なら離れればいいし、快適なら一緒にいればいいだけの話で、相手や環境に何かしらの変化を期待するのはあんまり意味がない。

問題への立ち向かい方は、ぶつかるか、耐えるか、離れるか、それを問題ではないかの如く捉えなおすことのいずれかでしかなくて、それらの手段が要するコストと、もたらしてくれるリターンの比較衡量が全てだろう。後者が前者を上回ることは、企業の中では限りなく少ない気がする。

(こうした人間関係の問題は、多くの苦楽を共に積み重ねて乗り越えるだけの時間があれば、また違う結果をもたらすのだと思う。「会社の人間関係」においてそれは望みにくいだろうし、あえて望みたくなるようなことも少ないという話だ)

一言で言ってしまえば、大人の対応を体で学んだとでもまとめられるだろうか。だいぶ乱暴な気もするけど。

と、ここだけでこの段落を終わらせると、知恵を付けた社会不適合者の負け惜しみにしか見えないと思う(笑)。ここまで明け透けに吐き捨てられるのは、自分をさらけ出したうえで仲良くやってくれる友人が少なくない数できたおかげだ、と言うことは補足しておきたい。感謝。

 

ここまでいろいろ要因を書いてきたけれど、これらをひっくるめるとたぶん、現実と向き合ったうえで自己肯定感を得られたという言葉に帰着できるのではないだろうか。月並みな言葉だけれど。

 

冒頭で上げたようなコンプレックスからくるモチベーションの形は、適切な自己肯定感と表裏一体なんだろう。これまでの自分はそれを燃やして燃やして歩いてきたわけだが、幸か不幸か、エンジンの形が変わってしまった。それが不可逆的な変化なのかはわからないけれど、それ故に、外界への気持ちのベクトルが縮小した。

丸々22年生きてきて、のたうち回っていた自意識というイモムシが、サナギという形に安定したのだ。そこから蝶が出るか毒蛾が出るか、それとも枯れ死ぬのかはわからないけど、なるようになるだろう。

遅すぎた思春期の終わりか、早すぎた達観の始まりか。たぶん前者。