コスパ思考の呪縛
タイトル通り、コストパフォーマンスについて考えてみた。
自分の不合理なカネの使い方への自戒と、そのちょっとの正当化が目的である。
極論と詭弁成分が多めだが、割と真面目に考えたので読んでもらえると嬉しい。
コスパとは
コストパフォーマンス【cost performance】
①要した費用と、そこから得られた成果との対比。コンピューター-システムの評価に用いる。
②支出した費用に対して得られた満足度の割合。(三省堂 大辞林 第3版より)
辞書的な意味だとこうなる。もちろん言及したいのは②の意味だ。
ビジネス界隈ではROI(Retrun On Investment) という言い方もあり、こっちの方が日常で言う「コスパ」のニュアンスに近いかも知れない。
コスパの呪縛
いつ頃になってこの言葉が一般に使われ始めたかはわからないけれど、その概念は大多数の人に根付いていると思う。
「コレをこの値段で買うのは妥当か否か?」「別の手段でもっと安く済ませられないか?」つまり「コスパはどうか」という感覚は、今の社会では老若男女問わず普遍的に、当然に備えているはずだ。
資本主義である以上、ある商品の価格を妥当だと思えるラインは千差万別だが、誰の中にもそのボーダーライン自体は存在している。
倫理を度外視すれば人の命だって買えてしまう社会だ。あらゆるものを金で買える世界では、あらゆる消費行動にコスパ概念はつきまとう。
もっと言ってしまえば、コスパ概念は売買行動に限らず当てはまる。リソースを費やして成果を得ようとする試みは全てコスパ概念の守備範囲だ。
イメージしやすいリソースの筆頭が時間だろう。「コレをするのにn時間費やすのは妥当か?」「もっと時短できるやり方はないか?」という問いは上記の問いと全く同じ構造だ。
こうした判断はまさしく人間の合理性のあらわれであり、合理性があるからこそ人間はこんなにも物質的豊かさを手にしたと言われる。
だからこそ、上記のようなコスパ概念は、普遍的なものであるだけでなく、とても強固なものだ。
しかし、ぶっちゃけコスパを追求するだけの生活って虚しくないだろうか?
コスパを追求すると、おのずと「生きるのに必要最低限の欲求を、必要最低限のコストで満たす」という行動原理が浮かび上がってくる。
考えてみれば自明だが、こんなことは不可能だ。
例えば食欲。これは生命維持に必要な栄養素を求める欲求である。これを最低コストで満たすと仮定してみよう。
人間、基礎代謝分のカロリーと一部の栄養素さえあれば生きるには事足りる。腹一杯コメだけ食って、あとはサプリメントでオッケーだ。もっと言えば、点滴だけでも人は生きていけるはずだ。
しかし、こんな食生活を実際に出来るだろうか? もちろん無理だ。
日常的な食生活は、それがフツーの人間の日常的な食生活である限り、食欲を満たすという目的に対してコスパが悪いのである。(もちろん、程度問題だ)
コスパの根源にある合理性こそ人の強みである。
そして、合理性を働かせ、適切なカネの使い方を考えなければ社会ではまともに生活できない。
(現代日本ならなおさらだ。若者の〜離れなんて言葉があるが、大体の〜離れは人々のコスパ意識の高まりに収斂するだろう。)
だが一方で、人間はどこかで贅沢しなければ、非合理でなければ生きていけないように出来ている。
身体を生かせるギリギリまでコスパを追求し、その他のことに一切リソースを割かないような生き方では、生きている意味を感じられない。精神の方が死んでしまう。
心の生存のために、どこかでコスパを度外視するべきなのである。
呪縛からの解放
とはいえ、基本的にコスパ重視で生活する現代人が節操なく諭吉をばらまいてみたところで、無駄金使っちまった!という自己嫌悪に襲われるだけだ。
人それぞれ「コスパの良さ」への判断基準が違うように、何にどれだけリソースを費やすのが幸せなのかも各々の資本力やパーソナリティによって異なるだろう。
安易なまとめになるが、コスパを度外視してでもお金をかけたいモノ、生きがいと言ってもいいかもしれないが、それがすでに見つかっている人はそこに邁進すべきだ。
一方で、自分がリソースを費やすに値するものが見つからない人は、それを探すこと自体にお金と時間を投資してみれば良いのではないだろうか。
そこで対象が定まれば御の字だし、もしなかなか見つからなかったとしても、その遍歴の過程そのものを楽しむことが出来るようになっているかもしれない。「自分探しの旅」そのものを贅沢に値する趣味にしてしまうのも1つのゴールとしてアリではなかろうか。