臆病で尊大な読書日誌

読書感想文 時々アマチュア哲学

中村文則『悪と仮面のルール』を読みました

"……その人間が幸福だったか不幸だったかは、その人間が寿命とか病気とかで死ぬ寸前まで、わからないじゃないか。……何かの温度がさ、過去であれこれからの未来であれ、その人間の長い人生のベクトルの線のどこかに、いくつかあるはずだよ。"(本文より)

最近サボってましたが、久々の読書感想文いきたいと思います。今回読んだのは中村文則の『悪と仮面のルール』という小説です。

この人は、一般にはあまり知名度がないかも知れません。かく言うぼくもピース又吉のエッセイを読んではじめて名前を知りました。

しかしこの人、芥川賞大江健三郎賞を受賞しており、著作は英訳されウォールストリートジャーナルでも年度ベスト10入りを果たしているかなりの実力派です。

ぼく自身、ここ最近はこの人の小説を貪るように読んでおり、そろそろ文庫化されている分はコンプリートしそうです。

この記事ではそんな彼の小説の魅力を少しでもお伝えできればと思います。

物語は、悪辣外道な父親の鬼っ子として育てられた主人公文宏が、愛する女性、香織を守るために父親の殺害を決行するもそのトラウマに苛まれ、結局香織のもとから離れてしまうところから始まります。

その後大人になった文宏は、顔を変え別人として生活しながらも、香織の幸せだけを願い行動し続けますが、ある日、香織の周囲に、かつての父を想起させるような悪意の影が見え隠れするのでした。

以上がざっくりとした大筋です。

この本ですが、サスペンス的な緊張感あるストーリーと、作者の持ち味である、人間性の暗部に対する克明な描写が非常に良いバランスで噛み合っており、さながら芥川賞直木賞のハイブリッドというような面白さでした。

ぼくが以前作者のインタビューを読んだ際も、彼は「小説は文体か物語かの二元論で語られがちだが、どちらも両立することがベストだろう」という風に語っており、まさに作品で以って信条を体現していると思います。

今回は、この小説が構成と描写の両面で優れているということをお伝えしたいという意図で、主に文宏と香織の関係の趨勢を軸に、ぼくの気に入ったところを書きたいと思います。

この2人ですが、出会いは幼少期、「文宏に愛を覚えさせた後に香織を辱めてそれを損ない、絶望を与えることで『邪』としての教育を行う」という文宏の父の企みに基づいています。父は戯れにその企みの概要を文宏に伝え、それを防ぐために文宏は父の殺害を決行するのですが、その経験は文宏の内面に不治の病を宿します。

眼前の巨悪を殺さなければ、唯一愛した人を守ることは叶わない。殺人には、本能的な同種殺害に対する嫌悪感や、社会的倫理による呵責が不可避に伴いますが、文宏のような状態に陥った時に人間はどう振る舞えばいいのか?

この大きなジレンマに文宏は作中通して向き合うことになるわけですが、作者はこれを通じて「なぜ人を殺してはいけないのか?」という哲学的難問を読者に提示します。起承転結の起の時点でスーパーヘビー級です。文宏は、父のような邪の道に堕ちた自分のまま香織に向き合うことができず、自己を消そうとして整形を決行するわけです。顔を変える前の文宏と香織のやり取りは悲痛の一言に尽きますが、それゆえ読者にページをめくる手を止めさせません。

父と同じ穴のむじなと化し、どこか父の面影を感じさせるようになった文宏に対して、香織は自分の愛は健在だと訴えますが、文宏が香織を抱こうとすると彼女の体は強張ってしまう。もはや彼女は自分の愛を純粋に受け容れることができない。他人の悪辣に巻き込まれたに過ぎないが、それゆえにどうしようもない2人の苦悩を推し量れます。あまりに痛ましくて嘆息してしまうシーンです。

殺人という大きなテーマに基づく葛藤と、それを読者も味わわざるを得ないようなストーリーの構成がとても見事だと思います。

この辺の個人的に好きな部分で、 "父を殺したのはある種の正当防衛で、仕方がなかったと言う人も、いるかもしれないと思った。だが、強烈な幸福とあの激しい地獄が通過した僕の未熟な精神は、その一つ一つを整理し、ときほぐすことができなかった。内部に沈殿し、年齢とともにそれはさらに歪み、生きる上での重要な何かを、これからも損ない続けるのだと。しかし、僕の内部が不自然に静かだったのを、よく覚えている。" という文章があります。

もう取り返しがつかないということを受け止めながら、心が奇妙に凪のようになる感覚ってありませんかね?流石にぼくに殺人経験はありませんが、この非常に丁寧かつ淡々とした文体には、どこか"そういう経験"を追体験させるかのような魔力を感じました。

しかし、ただの陰鬱な悲恋で終わらないのがこの物語の良さだと思います。

かなり端折りますが、クライマックスで顔を変え別人として生きる文宏(「文宏の知り合い」と称して話を切り出す時の痛切さには胸を打たれます)と、大人になった香織は言葉を交わします。人を殺め、もはや正体を明かすことのできない文宏は、しかし、かつての想い出を無かったことにはできず、"文宏"は香織の存在が唯一生きる支えになっていたと伝え、この束の間、確かに心を交わすのです。

もちろん円満ハッピーエンドではありませんが、だからこそ、文宏と香織がその瞬間に至るまでに辿ってきた足跡が想起され、読者の感情を強く揺さぶります。2人の会話シーンを読んでいる時、恥ずかしながら久々に小説で涙ぐみました。

この辺で好きな文章だと、 "(前略)あなたのような人がいたから、こんな世界でも、少しは肯定できたって。あなたとの記憶が詰まった自分の意識を、消したくないって。あの日々は確かにあったって。いつまでも自分のままでいたいって。だからーー」 僕の声は、震えて仕方がなかった。" とかですかね。

ここまでの描写が重苦しく血に塗れ救いがなかったからこそ、この辺まで通しで読むと、思わず文宏の想いをトレースしてしまいます。このフレーズは、最終盤の文宏の語りと併せて、「くそったれで理不尽な世界だが、それでも……」という、実存主義的な力強さを感じさせられました。

と、こんなところでしょうか。

ちょっとでも文体の凄みや構成の美しさを感じていただけてたら幸いですが、中盤の部分をかなり端折りましたし、ぼくの拙筆ではこの作者の凄みを伝えきることはやはり難しいので、ぜひ皆さんが手に取って読むことを強くオススメします。

ご一読あれ。