「ライティングマラソン」にチャレンジしてみた
最初にライティングマラソンについて
以下にリンクした、作家の人が書いているブログにて紹介されていた、文章トレーニング法の一種らしい。
とにかく、内容の矛盾、誤字脱字、レイアウトなど、文章を評価する際の基本的なことをぜーんぶ無視した上で、脳みそに浮かんでくる言葉を時間を決めてひたすら書きなぐる。
それによって、文章表現を行う際に自分の脳内に浮かぶ気恥ずかしさみたいなものから自由になろう、というトレーニングだそうだ。
ヒネクレ者の自分にとっては、つべこべ言わずまず書け、というアプローチは効果的な気がしたので、採用してみた。
一応書いておきたい。
俺個人は作家でも何でもないし、このブログの収益化を目指しているわけでもない。論文やレポートが求められる環境にあるわけでもない。文章は純然たる趣味だ。
実際にチャレンジしてみた感想
15分*4セットの、脳内思考垂れ流しを終えて、一本タバコを吸って感想を書いている。
実際やってみてとにかく思ったのが、右手が腱鞘炎になりそう。死ぬ。腰も痛い。深夜4時にまるまる一時間かけてやった訳だが、深夜テンションのアドレナリンでごまかしきれない疲労感がある。
ただ、参考にした記事では、これを繰り返すことで、
・とにかく長文を書く事に対するアレルギーが弱体化する
・やってると精神がやばくなってくるが、そこで現れる、自分の無意識下の欲求や願望のようなものをあぶりだすことができる
といったようなメリットが挙げられていて、実際それはそうっぽいな、と実感することができた。
また、自分の思考回路と追いかけっこを延々繰り返すという行動は、どことなく瞑想じみていて今までやったことのない新鮮な体験だった。
自分の悩みやもやもやも、浮かんだ瞬間に書きなぐることになるので、あまり物事にうじうじしなくなるかもしれない。
今ここであとがき的なものを書いている際にも、疲労感とともにどことなく充実感みたいなものが感じられる。ブログに上げるかはわからないけれど、ぜひまた時間を取ってやってみたいトレーニングだな、と思った。
なお、一応書きなぐった痕跡をガチでそのまんま下記に掲載しているので、もしあれだったらスクロールしてみてほしい。人間が発狂しかけている様が見られて面白いかもよ。
参考にした記事
http://readingmonkey.blog45.fc2.com/tb.php/685-b5bbea66
マラソン本番
注意
※俺の精神は健全です、心配しないでください。暇なだけなんや。
※変態以外は見るのを勧めません。PV乞食だからツイッターにリンクは貼るけど。
1set
ネット上で、一定時間タイムを測って一切推敲、文脈の構成、論理の矛盾の有無等を気にせずに文章を書き殴り続けるという文章トレーニング法を見かけた
ちょうど自律神経の不調(といってもただの昼夜逆転)によってなかなか寝れないので、試してみている次第である。
頭に浮かんだ言葉をひたすら書きなぐると言っても、無意識に脳内で内容を接続しようとしているみたいで、意外と変な飛躍みたいなのは起こりにくいっぽい感覚がある。
ここから何を書こうか思い浮かばなくなってきたひたすらきーおーどに向かってタイピングを繰り返しており、誤字やご変換には気を使っていない。ブラインドタッチができないので、全く画面を見ずに打刻の感覚だえkでミスタイプを判断している。ここでまたとまってしまった。いがいとタイピング速度工場のトレーニングにもいいかもしれない。
元記事では、自分の文章に対する脳内リミッターを突破ら歌目に書きなぐる練習なのだと書かれていたけれど、結局同じことの堂々巡りをやってる感じがする。現にいま脳内リミッターが働いているってことやろか。
スペースキーがお亡くなりになったこのLENOVOのノート、キーボードに5分以上向かい合っているけれど、ボードの誇りが汚すぎる。変換キーもスペースが使えないので、打つ目標が小さくて妙にストレスかかる。給料入ったらPCをしんちょうしたい。あとはKindleタブレット。きんどるじゃなくてもいいけどじっかでIPADを使ってみたら、意外にも使い勝手がよく、というか使ってる時のおもちゃを弄ってるような感覚が楽しく、ちょっとほしくなってしまった。WIFIの活用が鍵だと思うけど、ポケットWIFIを契約すると海鮮料がかかるだろうし、スマホでてザリングすると通信料制限がのしかかってくるので、うまくふりーWIFIスポットなんかを見つけていくしかないかね。
口調も内容も整合性が取れない。そろそろ句読点や誤字もリアル勝ちヤバイ感じになってきているのがs。
ライティングマラソンとはよく言ったものだなと思う。というのも、ただただ文字列を10分以上打ち込み続ける活動は、純粋に体力、精神力的に来るものがある。今無意識に息が止まっていた。結構交感神経に来るけいの作業なのかもしれない。キーボードから手を離せないので、スマホでセットした15分タイマーが今何分を示しているのかがわからない。終が見えない作業は非常につらく苦しいものだ。
高校時代のラグビー部の練習を思い出した。不甲斐ないプレー、遅刻等が生じた際に監督命令で発生する懲罰ランニングは、大抵の場合何回何周走ればOKみたいなスコアリミとが無制限で、大体最終下校時刻との兼ね合い、または監督の期限との兼ね合いで終が判断される。
純粋にランニングがきついのはもちろん、終わりの見えなさそれ自体にも、きつさを誘発する性質的なものがあるんじゃないだろうかと思う。
当たり前のことをつらつら書いているだけのようになってしまう。脳みそのリミッターを外すためのアクティビティのはずなのに、そうやって書き殴っている間にも反省的な、冷笑的な自分が顔を出してくるのは本当にどうにか並んも。
よく、文章を読んでいると、エキセントリックな論理の飛躍、描写の一点などを駆使して文学性を醸し出してくるタイプの物書きがいるけれど、自分がそうなれる日はいつになるだろうか、よくわからん。
流石に右手が腱鞘炎になりそう。この作業がちょっと楽しくなってきた。矛盾しとる。けど、何かを一心不乱にやっている最中の自分の心境を実況するのって結構楽しい。いま
1セット目、ここでタイマーストップ
2セット目
二セット目開始。一セット目が意外に楽しくなってきたなと思ったらタイマーが鳴ってしまい、肩透かしを食らったような気分になってしまった。やる前は無茶きついなこれと思いながら手を出していなかってけど、やってみたら案外楽しい。自分は暗示にかかりやすい体質っぽく、何事も結構得する立ちだと思う
なにいってんやろ。行間、脳みその思考の余白、手のブレーキをぶっ壊すために、たまに思ってもない言葉がキーボードから出力されてる。脊髄反射的な感じ。聞いてない。何言ってるんやろ俺。二回目。そろそろ書くことなくなってきた。二セット目冒頭といきなり矛盾してる。何いてんやろ俺。そろそろ狂気じみてきた。脳みその合理的思考のスピードを手のアウトプットが超越し始めてる。と思ったらおもっきり手がかじかんで文が止まって脳が追いついた。めちゃ気分割位。なにいってんだよ。あー止まった。文章が止まった。神田。喋りで言うと吃音みたいな感じ?なんか突然手の動きが追いつかなくなってしまった。誤字、ミスタイプを気にしてしまってるからやろか。これをブログ記事のフォーマットに書き込んでるからいけないのかもしれない。FとかPとか、離れたところにあるキーめっちゃ打ちづらいな。インターフェースは人間の想像性の限界を規定する。とかどっかで読んだことある。それか。そのいみだとこの、歯磨き粉のしぶき高誇りの固着だかよくわかんねーもんが不tyを眺めながらなれない長文タイピングを繰り返してるのは、良くないのか?いいのか?よくわからん。なにいってんだ。そろそろあたまがおかしくなってきたとおもわれそう。iya,
yomuyatuorannyarokonnnann.
henntaika?
もしいたら一回話してみたいね。そいつが何考えながら生きてんのか不思議だわ。バイト化勉強家睡眠家オナニー0か何か、これ以外の別のことしてたほうが遥かに有意義だと思うよ。じゃあ俺はなんでこんなsダ行をしているのか。おれにもわからない。多分深夜テンション。
深夜テンションってすごいよね。良いとは違って明らかにテンションのリミッターとかがおかしくなってるのに理性はちょっと残ってるっていうか。テンション高くなってるけど自画や合理的な思考は唸ってないっつーか、そんなかんじよ。
これ、マジでt誰にも読まれんかたらちょっと悲しいな。誰かに読ませられる体裁をと整えたりしてないし、改めてするのも面倒だからしないけどさ。承認欲求からは絶対に逃れられない。サメからは絶対の逃れられないっていうアメリカのサメ系Bきゅうくそえいがのキャッチコピーっぽくて宇検?うけんか。
かいごうをどこではさんでるのかわかんない。もし万が一、電子の海にいる何十億人かの誰かにここkまでの文字列を長得ている人がいたら聴きたい。今俺どんな感じの文章打ってる?狂気じみてる?朝見返して恥ずかしくなりそう?そもそも流し読みしてて内容頭に入ってきてない?わかる。俺もないよう考えながら売ってねーし。リアルガチでそのまま円絵年独り言をキーボードに向かって叩きつけてる感じっすよ。意外と楽しいからやってみ。そういう変態仲間が欲しいな。大学の連中にこのこと言ったらまじでキチガイ扱いされると思う。昼夜逆転と暇と自意識が被さると人間ここまでよくわからんくなるよ。狂人の真似をして大路を走らばそれすなわち強靭なり。さっきみたニコ動の動画にコメントなだれてた。そんなkんあんじだ。ラッパー見たくなってきたな。接続が雑。そんなかんじってどんなかんじやねん、俺しかわからん感覚やろ。狩りにも表現媒体として文章を使っているならそんな感じとかいう曖昧な表現に逃げないで欲しい。これな内政じゃなくてラッパーひあはん。消費者は馬鹿なのでもっと具体犯して欲しい。マジで疲れてきた。
早よタイマーならないかな。これ書き上げて何おするのか。まとまった量の文章を生産する予定はあいにくない。趣味でやってる読書感想文意外に文章を書く機会なんてもんはない。卒論もない。レポートがあったわ。今思い出した。でもどーせ一冊本読んでコピペしてちょっとこうさつするだけだろうから、そんなに苦にならないと思う。まとまった文章生産って感じじゃない。A4二枚で終わるんやぜ?俺今多分何千文字か書いてるけど、それだけでとりあえずA4二枚以上は言ってるもん。これ地味に考えると
2セット目終了
3セット目開始
まだまだ続く与良イッティングマラソン。多分眠れずに寝床でスマホ弄り続けとるよりは有意義だと信じている。今PCのうらのペットボトルが倒れて変なな音たててまじでびっくりした。心臓ちょっと知人だ。ただでさえ最近タバコで血圧上がってる感じするんだから勘弁してほし。そろそろ右手の指が限界。スピードが超絶落ちてきた。書きたくねえうそ描きたい。ばーかうそだよ。誰にいてっるんだろう。少なくともここまで読んだあなたにではないよ。こんな魑魅魍魎を目に入れてくれてありがとう。できるだけ口語表現を挟まずにこのアクティビティをやっていきたいんだけど、一応なんの制約もなく脳内の文章を吐き出そうとしているとどうしても方言だったり口語表現が混じっちゃうね。それはしょうがないね。なににってんのやろ。なんかまを持たせるために何言ってんやろって言ってる。思考がそっちに逃げてる。エアポケット的な思考の空欄が発生するようになってきた。虚無スポット。またなにいてtんだろ。また逃げた。そろそろ連続的に文章を紡ぎ出すのがマジで苦しくなってきた。フリー0スタイルラッパーとかすごくない?なんであんなmyラクラクを繋げた話を一人で十分とか出来るんりゃろね?輪入道いいよ。聞いてみて欲しい。二枚目のアルバムがおすすめ。一枚目はなんか昭和臭かった。なにいってんだろ。また逃げたなお前。自己言及的な、自己検閲的な、内省的な視点を投げ捨てる、音を置き去りにするじゃないけど、そういう目的のためにいまこれっをやってるんだから自分へのメタな批判をやめろ。メタをやめろ。メタ大好きか。俺はメタが好きなのか。誰かやアニカに対すて上から語るのが大好きなのか。そう言われたら決して否定できない。語る対象がどうしても自分とかそんな感じになってしまう。他社を語ろう。そういえば哲学的にいう他社って別に人間に限らないらしいっすよ。すごいよね。値にがすごいかはよくわからん。でも國分浩一郎っていう東大白紙での先生が言ってた。だからすごい。権威主義万歳。暇と退屈の倫理学っていう本屋で。おすすめ
長いけど。なんか思想史の概略みたいな感じになった本で、最終的に、慢性的な虚無感や退屈に対して現代人はどう立ち向かっていく勝手結論を導き出そうとしてるんやけど、哲学者各々のしそうの紹介が普通に勉強になるから、ちょっと違う視点で学術書読むのが楽しい人とか、おすすめしたい。あれよ、お酒の世界史、とかそういうかんじの歴史書が好きな人にはおすすめ。わかるか?わかるか?わかるか?今日人事見てきた。こういうふうにマジで何も考えずに、いや全部考えてるのか。そういうふうにしながら出てくる言葉ってやっぱりそいつの辞書の中に固着しているコトバだと思ってて、それってほかの文章やべしゃりをやるときにもmuisikinitayottesimaigati1de、さすがに日本語じゃないのはやばい。じm¥ぶんでよみかえすことすらできなくなったらいよいよむかちだ。一瞬画面を見て英字入力になっててぼぼった。ぼぼったってなんやねん・。びびったんだよ。つかれた。腰がいたい
BGMのゆーちゅーぶが耳に入ってくる耳鳴りみたい。耳鳴りではないか。普通にギターの音声です。ギターといえば、一年の秋にギターを買ってんだけど、結局曲を弾くためにアンプを繋いだりコードを覚えたり、スローテンポでノーミスを維持できるように練習するみたいなのがすとれすで全然左腕なくなってしまった。やっぱ誰かほかのメンバーがいないとああいうのは長続きできないのかも。強制力というか。一人でアンプに繋がず運指の練習しとるだけって相当やばい。虚無に襲われる。なんでか知らんけど強めに抑えても元がぶれるし、左手の指の構造的にバレーコードは抑えられないし。嘘ついた。バレーコードに挑戦する以前でギターは埃かぶってる。すごいとおもう。俺もなんか楽器できるようになりたかった。プログラミングとか、絵とか、文章とか、そういう生産的な特殊技能が欲しい。絵は、中学時代唯一氷帝がご段階中の2で萎えた。技法も知らない、アイデアもわかないy蔵帯で絵を格好としてもなかなか辛いものがある。いまだったらかけるのかな?いまだったら、この年になってえを練習し始める自意識に負けてしまう気がする。えは文章と違って、自分の下手さが
3セット目終了
4セット目開始
四セット目。先の絵の話とかが面白くなってきたので話題をつなげられるよ。最近思うのが、インターネットの発達ってえを練習するにはだいぶ不向きな環境なんじゃねーかなって思う。だって、よっぽど負けん気やがむしゃら精神が強くないと、常に自分より上手いえがインターネットに大量に流れてくるのを見て落胆する羽目になるわけじゃない?それってなかなかきびしいよね。天才はそこで悔しがって奮起するタイプの人間だってにちゃんのまとめサイトのれすで誰かが言ってたけど、信ぴょう性は別として俺もその意見には賛成です。でもその負けん気を保つのが難しい。多分俺が絵を書こうとしたらそのへんの相対的支店に押しつぶされてしまう。
じゃあ例えばプログラミングはどうkあ?最近は理系のドクターが、機械学習やら人工知能やらIOTやらVRやら、なんやらかんyらで大ブームだ。匿名質問箱を作ってばずらせて、それをIT企業に売却して人ああ遺産築いた人間のついったーあああうんとをこないだみた。スキルは力だ。当奥大を中退した人間も、WEBデザイン系の開発スキルをもとでにフリーランス、企業を経て今はそこそこのポジションに収まってるっぽい。その人とは何回か飲んだことあるけど、こういうたいうんでもなんとかなるんやなという勇気を与えてくれた。そんでプログラミングにも興味を覚えて、インターン行ったりとかしてはみたものの、
ループ構文ってあるやん。あれで、カッコの数合わせとか、そういうショーもない細かいところでどうしてもエディタと性格が合わなくて、作業が進まなくて、イラついて、挫折。そもそも作りたいものがないのに、技術だけ得るつもりで開発言語に触れるのって無理があると思うんよね。人間誰しも絶対手段として歯科技能を習得することはないと思うんですよ。ゲーム作りたいとか、面白いアプリ作りたいとか、そういうゴール設定が先にあって、その手段としてプログラミングを学んでいくんだとお思う。そういういみでは、やりたいことがとになく、なんとなく使えそう、カッケーくらいの感覚でプログラミング言語に触れた自分は、まだ熱意的なもんが足りんのやと思う。もしくは、面白みを感じるための感受性。ジャンケンアプリ作っても俺あんまり面白くなかったもんね。なんでかわからんけど。テキストほぼ丸パクリだったからかもしれない。なにいってんだ。ここまで読んだ人間とかおらんと思うけど、お察しのとおり筆がつまりました。じゃあ文章の話をしよう。そういう絵とかプログラミングとかギターの挫折があって、ようややく?たどり着いたジャンルが文章なんすよね。一様ネイティブ言語で何かを言うだけ。初期の参入障壁はほかのどのジャンルよりも低いと思う。異論はないと思う。だからかわかんないけど、とりあえず一年ブログ継続する程度のことはできている。運動も、上述したような特殊技能もできないじぶんにとって、gutaitekina
zibunnno
スキルとしての拠り所は、多少学力があって中小的思考が嫌いじゃないくて、本を読むのが好きなことくらいしかないんですよ。要素分解すると。でもとっさのライティングをしながら三つも出てきたってことはやっぱりプライドが高いのかもしれへんな。ともあれ、そういう自分が生産手段、スキルの確かな形として文章に救済を求めに走ったのはやっぱ必然的なものがあったとはおもう。べつに小説書いたり歌詞書いたりしてるわけじゃない。たまに気が向いた時に内心を文章によってゲロゲロ吐き出してる朱。実際に音声にして発するとおぞましい、カタカタ敷いことばでも、紙の上、モニターの上でなら一段階フィルターが掛かって柿安い。下記が安いってなっててうける。一瞬モニター見返したらダメだね。破綻してる感じが面白くなってしまう。話を戻すと、そうこうかっとうがあって、今こんなこともやってみたりしてるわけだ。文章をいっこスキルセットの一つとして加えたい。それでなんか具体的な能力をアピールして、自己肯定感を貯めたい。俺はそのためにいま文章トレーニングをやっている。今思いついたんだけど、就職したら週末に単価教室とか脚本教室みたいなやつに通ってみようかな。俺が馬鹿にしてる声優専門学校に通うオタクみたいなことをすることを思いついて、我ながらちょっと笑ってるよ。学校通って学んでるだけで何者かになれたような気持ちを得るん。でも、形から入るのは簡単で悪くない。そこから目が出せるかはそいつ自身だ。
4セット目終わり
2017年読んだ本10選(後半)
2017年に読んだ本を10個選んで紹介企画。
こないだ公開した記事の後編やっていきたいと思います。
ここまで前半で紹介したので、以下五冊をこの記事で紹介します。
- 『メタ倫理学入門』佐藤岳詩
- 『勉強の哲学』千葉雅也
- 『BUTTER』柚木麻子
- 『ライ麦畑でつかまえて』サリンジャー
では早速やっていきましょう。
暇と退屈の倫理学
瀕死の体で内定を取って以降、死ぬほど退屈だった時期にTUTAYAでジャケ買いした本です。
著者の國分功一郎さんは、
・暇=人間の生活に余った時間がある状態
・退屈=ある時間をつまらなく感じてしまう心の状態
と定義して、退屈を克服し、できるだけ充実した人生を送るにはどのように生きたらいいか?(倫理学)というテーマに取り組んでいます。
内容は決して短くはありませんが、その過程はとてもわかりやすく、哲学史的にも勉強になります。
結論には賛否両論あるかとは思われますが、國分さんも作中で書かれているとおり、この問題について読み進める中で、答えを得るために自分なりに頭を働かしていくこと自体に意義があると思います。
メタ倫理学入門
メタ倫理学ってなんやねん。ごもっともです。ぼくも門外漢ですし。
メタ倫理学とは、「どのように生きるのが良いか」を考える倫理学分野の一種であり、一歩引いた立場(メタな立場)で倫理を考える学問のこと、らしい。
具体的に書くと、
「どんな生き方が良いかっつーけど、そもそも良く生きる必要あんの?楽しく生きてきゃ問題なくね?」
「道徳とか不道徳とか言うけど、結局そんなん人の主観次第、状況次第じゃね?」
「いや、まずそもそも道徳ってなんやねん!どーいう意味で言ってんの?」
といった、倫理学における「そもそも」について考えていく分野をメタ倫理学というそうです。ちなみに日本では、この本が唯一最初の入門書らしい。
とっつきにくいと感じる人も多いかもですが、身近な具体例を散りばめながら、各論に深入りしすぎないように構成されているためとても読みやすいです。
上の具体例みたいな疑問を抱くことは誰にでもあると思いますが、そういう日常的な感覚を、本を使って突き詰めて考えてみるのは意外と楽しいっすよ。
勉強の哲学
ぼくはミーハーなので、帯の「東大・京大~」を見て手に取りました笑
勉強する、ということはどういうことか?について考察している本です。
この本で覚えているのが、
「一般的に勉強は知識を獲得する営みだと思われているが、どちらかというと古い見方・考え方を破棄・更新する点で、脱皮に近い」
「能動的に勉強するとは、所属コミュニティのノリを一時的に外れること。誤解を恐れず言うとキモくなることである」
ここらへんのフレーズですね。
勉強という活動が及ぼす自己への変化だけではなく、それが及ぼす外界との関係の変化について言及しているのが新鮮で面白かったです。キモさを恐れずやっていきたい。
ちなみに、ここまであげた3冊は全部学部の勉強なんかとは全く関係ないです。
人文思想系の本を専攻も関係なく読んでるの、それこそコミュニティでキモがられて浮きそうっすよね笑
しかし、こうした類の本を読むことで、自分の無意識的価値観を認識したり、他者の価値観に寛容になれたりといった利点が生まれることもあるかと思います。
まあ、頭でっかちになっちゃったら意味ないんですけどね。
そのへんの勉強の弊害に関しても、『勉強の哲学』では言及されてます。
BUTTER
はい、かってぇテイストの本ばっかりだったんで小説行きましょう。
結婚詐欺&殺人容疑で逮捕された女性にたいして、週刊誌記者が独占インタビューを挑むという筋書き。
本作はこの、木嶋早苗容疑者の事件をモデルにして書かれているそうです。結構話題性ある事件だったので、この時点で興味を引かれる人もいるんじゃないでしょうか?
内容自体も、獄中の人間に主人公が徐々にのめりこんでいく様がめっちゃスリリングでおすすめ。直木賞最終候補に残った秀作ですよ。
あと、地味に飯テロ小説です笑
これも感想記事書いてるんでよかったら。
柚木麻子『BUTTER』:しがらみに苦しむ現代人にオススメの直木賞候補作 - 学生読書日誌
ライ麦畑でつかまえて
「あーなんか、タイトルだけ知ってるわ」って人が多いんじゃないでしょうか。
有名な古典的ジュブナイル小説ですね。
端的に紹介するなら、人間潔癖症の青年の苦悩を描いた作品です。
印象的だったのは、主人公が
「一面に広がるライ麦畑で遊びまわる子供たちが、道をそれて崖から落ちてしまいそうになった時、それを抱きつかまえて畑へ帰してあげるような仕事だけをしていたい」
と吐き出すシーンです。
甘ったれてる!でも、なんかその気持ちわかるわ……と趣深い感情に襲われました。
就活を経験した一般家庭の人間なら、少し共感できるんじゃないでしょうか。
これも個別記事あるのでぜひ……
まとめ
前半と合わせて、以上10選が個人的2017年TOP10ですかね。
とりあえず、読んで損はしないと言えるセレクションだと自負しておりますので、よろしければいずれかを手に取ってみてください!
古典SF『幼年期の終わり』 の感想・考察
うじうじと過去を懐かしむようなことだけはしたくなかった 。余生を過ごしていけるだけの物資はある 。
何より欲しかったのは 、電子ピアノとバッハの楽譜だった 。これまでは音楽に時間を費やすことができなかった 。それをいまから取り返そうと決めていた 。(中略)ジャンは昔から優れたピアニストだった 。そしていま 、彼は世界最高のピアニストだった 。
新年の挨拶のために祖父母宅へ向かう電車の中で読んだこの小説がめちゃくちゃ良かったので、新年1発目の感想記事を書こうと思う。
この文章で本作への興味を引けるかはなんとも言えないが、ぜひ多くの人に読んでみてほしい作品だったので、もしよければ。
表紙はこちら。自分が読んだ版とは違うが、そこはご容赦ください。
あらすじ(光文社新訳版)
ある日、地球上空に巨大な宇宙船が現れ、宇宙船の主たち、オーヴァーロード(最高君主)と呼ばれる異星人は、超越的な知性と科学力で姿を見せぬまま人類を統治し、平和で理想的な社会を地球にもたらす。
その舞台設定の中で、
・未知との遭遇を果たした人類は、彼らとどのように関わるのか?
・オーヴァーロードたちの真の目的はいったい何なのか?
・そして、人類はどこへ向かうことになるのか?幼年期の終わりとはどういう意味か?
といった様々な視点から物語が展開していくのが本作の構造である。
この話は、いわゆるエイリアンへの抵抗を繰り広げるような宇宙戦争的なモノではない。
本作の世界では、序章が終わった時点で、人類は手も足も出ずに征服されきっている。
だが、その征服のあり方は非常に良心的(?)だ。
彼らは国連を介して人類に的確なアドバイスを与えながら、自身らの卓越した科学技術を駆使することで、みるみるうちに、争いが無く生活水準も向上した理想の世界を実現させる。
例えば、
・世界ではもはや計画的犯罪は起こりえない(犯罪に手を染めずとも、全人類が豊かな暮らしを送れる)
・思想対立を発端とする紛争も生じない(圧倒的な上位者が君臨したことで、人類レベルで思想の優劣を競う行為は無意味になった)
・環境の問題はオーヴァーロードたちの超越的テクノロジーによって解決
などなど。
読者が直感的に思い浮かべたような、理想のグローバル社会がそこに生まれたのだ。
しかし、オーヴァーロードたちは、なぜ地球人類にそのような恩恵をもたらし、管理・保護してくれるのか?
その根本的な目的は、彼らのだれも語ろうとはしない。第一章においては彼らはその姿すら現さない。
そうしたオーヴァーロードらのスタンスは、一部の地球人類のささやかな不信を買うことになる。実際、第一章、二章においては、オーヴァーロードに懐疑を抱いてしまった人間たちの果敢な行動を起点に物語が展開する。
そして、オーヴァーロードが飛来してから数十年。
もはや人類にとって彼らの存在があたりまえになり、オーヴァーロードネイティブとでも呼ぶべき新世代の子ども達が生まれたとき、彼らの目的は明かされ、物語はクライマックスを迎える。
感想
まず、ざーっと読んでの感想として、とても訳文がこなれていて読みやすい。平易ではあるけれど、原文著者が込めた皮肉やユーモアのニュアンスは上手く残されている。
また、SFとしてのテクノロジー描写自体も、たいして古臭さを感じさせない。
異星の様子をはじめとする数々の情景描写は、とてもスケールが大きくて美しい。
※以下、内容面のネタバレ
内容面で良かったのはやはり第三章。
オーヴァーロードたちの目的が明らかになり、地球人類の趨勢が決定づけられてからの描写だと思う。
オーヴァーロードたちは、実は宇宙を統べる超強力な精神体「オーヴァーマインド」に奉仕する種族であった。
その能力を活かして、宇宙に存在する知的生命体が、オーヴァーマインドの一部へと進化することを促進する役目を負わされている。
その進化の種として今回選ばれたのが地球人類というわけである。
そして、新世代の子供たちは、もはや親たち旧世代には理解の及ばぬ存在へと変貌を遂げ、最終的にはオーヴァーマインドへと進化し、彼らと一体化する。
この変貌・進化・統合の過程こそが、本作タイトル「幼年期の終わり」の意味であり、すなわち人類史の終わりだ。
この第三章で個人的にツボったのが、オーヴァーロード自身は、人類のようにオーヴァーマインドへ進化する可能性が無いと断言されていることだ。
確かに卓越した能力、科学技術、知性を持ってはいるが、しょせんそこまで。
彼ら自身はすでに完成されてしまっており、社会や種族としての発展はすでに袋小路だというのだ。
しかし、彼らは自らの運命に絶望しない。
数々の知的生命体の進化を促していく中で、どこかにその袋小路を打ち破る鍵がないかと懸命にあがいているのである。
卑近な例を出すなら、怪我して選手生命を絶たれてしまいながらも、コーチ、マネージャーに転身する人間の悲哀だろうか。
あるいは、自分には非凡な才能はないと知りながらも、作家の創作活動をサポートして名作を生み出そうとする編集者の涙ぐましさか。
この辺の切なさは本作の大きな魅力だと思う。
また、冒頭にも引用したが、ラストシーンである事情から、ジャンという旧人類の青年が唯一の人類の生き残りとして地球に残り、滅びを見届けることを選択する。
科学者だった彼は、自らの余生の短さを悟り、過去に才能の面で諦めたピアノに再度向き合い没頭する。なんせ彼は、今や世界最高のピアニストなのだから。
ここの、覆せない終わりを見据えつつも、自分のやりたいことに向き合うというシーンには、描写の美しさもありとても感動させられた。
考察
感想でも書いたが、ジャンやオーヴァーロードたちの、自分にはどうにもできない状況の中でもできることをする、足掻く姿の気高さのようなものが非常に強く印象に残った。
これはまさしく、著者クラークの読者へのメッセージではなかろうか?
いずれすべてが無に帰すとしても、虚無を克服して絶望に立ち向かうべきだ。
なぜなら、結果ではなくその過程こそが気高く美しいものだから。
そんな人間賛歌を、自分は本作から感じ取った。
- 作者: アーサー C クラーク,福島正実
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2012/12/21
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2017年に読んだ本10選 前半
あけおめです。三日坊主に定評のある自分が、なんやかんや一年ブログを継続してたっぽいです。
時分柄、それっぽいことをやりたくなったので、2017年に読んだ本の中からオススメを簡単に紹介しようと思います。
長いですがよろしければ。
5:5で前後半に分けて公開します。
ここまで前半で、以下後半で。
- 『メタ倫理学入門』佐藤岳詩
- 『BUTTER』柚木麻子
- 『勉強の哲学』千葉雅也
- 『ライ麦畑でつかまえて』サリンジャー
以上10冊が昨年読んだ中での個人的ヒットですね。
蜜蜂と遠雷
それぞれ異なる背景を持つ 4人のピアニストが、「これを制したものは大成する」というジンクスのあるコンクールに挑む小説。
才能といかに折り合いをつけるか?という非常に自分好みなテーマが激エモな筆致で書き出されていて、すごく好みでした。
過去に個別記事も書いたので良かったらどうぞ(小声
幼年期の終わり
国家間共同の宇宙開発事業が実を結ぼうとしていたある日、地球にオーヴァーロードと呼ばれる異星人が飛来し、その圧倒的な知性と科学力に基づく統治によって、地球文明はかつてない平和を手に入れた。
彼らが人類に介入する目的は何なのか?オーヴァーロードとの関わりによって人類はどこへ向かっていくのか?……という小説。
つい先日読みましたが、まずこのあらすじに惹かれました。序章の時点で地球征服されてます笑
この小説のキモはやっぱり、オーヴァーロードたちの目論見が徐々に明かされていく二章後半〜三章の不穏な空気とワクワク感だと思います。
これ以上言及するとだいぶ核心に触れざるを得ないのでボカしますが、今読んでも全然古くない名作古典です。訳がこなれててめっちゃ読みやすい。
これもこないだ個別記事を乗っけたので読んで欲しいです。
銃
日々に退屈している男子大学生が銃を拾い、日常が狂いはじめるという小説。
ピース又吉がどっかでオススメしてたのを見て読みました笑
虚無感を凝縮した淡々とした文体と、拳銃に自我が侵食されていくような不安定な感覚がページをめくる手を進めます。
鬱屈とした、しかし平和な日常を一撃でぶち壊す拳銃の誘惑の危うさがヒリヒリと感じられて、自分だったらどうなるだろう?と考えるのが楽しかった作品です。
作者特有の虚無や希死念慮と戦う作風にハマったのもここからで、本作を読んだ後、ひと月ほどで他作品もフルコンプしてしまいました。
機龍警察シリーズ
テロ・犯罪がグローバル化した至近未来。
市街地戦に特化した、さながらモビルスーツのような次世代武装"機甲兵装"が兵器のトレンドとなった世界で、警視庁"特捜部"がテロ組織との闘いを繰り広げるという小説。
対テロ作戦の行方をサスペンス的に楽しむも良し、キャラクター間の因縁を人間ドラマ的に楽しむも良しの二度美味しい作品です。
これも個別記事書いてるのでぜひ。
サピエンス全史
人間をホモ・サピエンスという一種の動物として捉えた時、なぜここまでの繁栄を遂げることができたのか?
そして、その道のりを振り返ってみて、今後人類はどんな方向に進んでいくだろうか?というスケールの大きな問題を、著者の博識をもとに分かりやすく、皮肉の効いた口調で考察した大作。
言語や道具の使用は枝葉に過ぎず、「虚構を語る」という世界の認識の仕方こそが人類繁栄のキーだったというのが本作の主旨。
著者に言わせれば、神話も貨幣も国家も社会システムも全て、人間の能力が生み出した「虚構」である。
しかし、現実を超えた虚構を生み出し、共有し、団結できることこそが、人間の最大の武器である社会性を生んだのだと提唱します。
小難しい話は別として、本作がどういうテイストの本か1発で紹介できる画像があるので貼ります。
これで笑えるセンスの持ち主にはとてもオススメ笑
後半へ続く
とりま半分の5冊です。
どれもすげぇ面白かったので、チラッとでも興味がわけば是非。
できるだけ早く残り5冊の紹介も書き上げたいと思います。
コスパ思考の呪縛
タイトル通り、コストパフォーマンスについて考えてみた。
自分の不合理なカネの使い方への自戒と、そのちょっとの正当化が目的である。
極論と詭弁成分が多めだが、割と真面目に考えたので読んでもらえると嬉しい。
コスパとは
コストパフォーマンス【cost performance】
①要した費用と、そこから得られた成果との対比。コンピューター-システムの評価に用いる。
②支出した費用に対して得られた満足度の割合。(三省堂 大辞林 第3版より)
辞書的な意味だとこうなる。もちろん言及したいのは②の意味だ。
ビジネス界隈ではROI(Retrun On Investment) という言い方もあり、こっちの方が日常で言う「コスパ」のニュアンスに近いかも知れない。
コスパの呪縛
いつ頃になってこの言葉が一般に使われ始めたかはわからないけれど、その概念は大多数の人に根付いていると思う。
「コレをこの値段で買うのは妥当か否か?」「別の手段でもっと安く済ませられないか?」つまり「コスパはどうか」という感覚は、今の社会では老若男女問わず普遍的に、当然に備えているはずだ。
資本主義である以上、ある商品の価格を妥当だと思えるラインは千差万別だが、誰の中にもそのボーダーライン自体は存在している。
倫理を度外視すれば人の命だって買えてしまう社会だ。あらゆるものを金で買える世界では、あらゆる消費行動にコスパ概念はつきまとう。
もっと言ってしまえば、コスパ概念は売買行動に限らず当てはまる。リソースを費やして成果を得ようとする試みは全てコスパ概念の守備範囲だ。
イメージしやすいリソースの筆頭が時間だろう。「コレをするのにn時間費やすのは妥当か?」「もっと時短できるやり方はないか?」という問いは上記の問いと全く同じ構造だ。
こうした判断はまさしく人間の合理性のあらわれであり、合理性があるからこそ人間はこんなにも物質的豊かさを手にしたと言われる。
だからこそ、上記のようなコスパ概念は、普遍的なものであるだけでなく、とても強固なものだ。
しかし、ぶっちゃけコスパを追求するだけの生活って虚しくないだろうか?
コスパを追求すると、おのずと「生きるのに必要最低限の欲求を、必要最低限のコストで満たす」という行動原理が浮かび上がってくる。
考えてみれば自明だが、こんなことは不可能だ。
例えば食欲。これは生命維持に必要な栄養素を求める欲求である。これを最低コストで満たすと仮定してみよう。
人間、基礎代謝分のカロリーと一部の栄養素さえあれば生きるには事足りる。腹一杯コメだけ食って、あとはサプリメントでオッケーだ。もっと言えば、点滴だけでも人は生きていけるはずだ。
しかし、こんな食生活を実際に出来るだろうか? もちろん無理だ。
日常的な食生活は、それがフツーの人間の日常的な食生活である限り、食欲を満たすという目的に対してコスパが悪いのである。(もちろん、程度問題だ)
コスパの根源にある合理性こそ人の強みである。
そして、合理性を働かせ、適切なカネの使い方を考えなければ社会ではまともに生活できない。
(現代日本ならなおさらだ。若者の〜離れなんて言葉があるが、大体の〜離れは人々のコスパ意識の高まりに収斂するだろう。)
だが一方で、人間はどこかで贅沢しなければ、非合理でなければ生きていけないように出来ている。
身体を生かせるギリギリまでコスパを追求し、その他のことに一切リソースを割かないような生き方では、生きている意味を感じられない。精神の方が死んでしまう。
心の生存のために、どこかでコスパを度外視するべきなのである。
呪縛からの解放
とはいえ、基本的にコスパ重視で生活する現代人が節操なく諭吉をばらまいてみたところで、無駄金使っちまった!という自己嫌悪に襲われるだけだ。
人それぞれ「コスパの良さ」への判断基準が違うように、何にどれだけリソースを費やすのが幸せなのかも各々の資本力やパーソナリティによって異なるだろう。
安易なまとめになるが、コスパを度外視してでもお金をかけたいモノ、生きがいと言ってもいいかもしれないが、それがすでに見つかっている人はそこに邁進すべきだ。
一方で、自分がリソースを費やすに値するものが見つからない人は、それを探すこと自体にお金と時間を投資してみれば良いのではないだろうか。
そこで対象が定まれば御の字だし、もしなかなか見つからなかったとしても、その遍歴の過程そのものを楽しむことが出来るようになっているかもしれない。「自分探しの旅」そのものを贅沢に値する趣味にしてしまうのも1つのゴールとしてアリではなかろうか。
『ライ麦畑でつかまえて』ネタバレ感想
「兄さんは世の中に起こることが何もかも嫌なんでしょう」(本文より)
最近、文末のバリエーションをはじめとした語彙力の不足による不自由を感じております。
なので、よりストレスフリーに書くために常体でやってみようと思います。
(「いや大してボキャブラ増えてねーやん」は禁句の方向で)
さて、今回はサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』について書きたい。
本作、タイトルだけは聞いたことがある人も多いはずだ。
かく言う自分もその一人で、不朽の名作だとか言われていることは知りながらもつい最近まで読もうとも思わなかった。
余談だけれど、古典的名作という枕詞がつく作品の多くは、義務教育でもない限りあまり触れる機会が無いのではなかろうか。
個人的には、本屋の店頭で平積みになっている新鮮な作品に目を奪われることの方が多い。
映画なんかだとより顕著で、観るのに手間と時間がかかるため、なんらかの使命感や功名心を持った人種以外はよっぽどのことがないと古典の視聴には踏み切らないイメージがある。
https://magazineworld.jp/brutus/brutus-859/
この雑誌のような特集記事が組まれるのも、そんな古典映画の性質を裏打ちしていると言えるのではないだろうか?(もちろん偏見である)
そんな感じでなんとなーく読まずにいて、なんとなーくAmazonでポチってみた本作。
読んでみれば、上述のような古典文学への食わず嫌いを克服してみようと思えるようになった。
あらすじ
一言で言うなら、海外版「人間失格」といった感じだった。
寂しがり屋&皮肉屋コミュ障&人間関係潔癖症と三拍子揃った主人公が必修科目を落第して高校を放校され、葛藤と自暴自棄を抱えながらニューヨークを三日三晩さまよい歩くのが本作の大筋である。
誤解を恐れず乱暴に言ってしまえば、物語の中で主人公ホールデンは全く成長しない。作中終盤で言及される通り、彼が邁進するのは堕落への道だ。
ある書評では、読み終えた後、試しに最初から読み返しても全く違和感がないとまで書かれていた。
主人公の造型をもう少し詳しく紹介してみる。
浪費家にして重度のアル中・ニコ中で、周囲の人間を「酒と煙草とセックスの話しかできない低脳」「退屈で不潔なウスノロ」「自己顕示欲に支配されたインチキ野郎」だと見下し、溺愛する妹や、尊敬する恩師からの進言も素直に聞き入れる事が出来ない。
ついでに言うなら、憎からず想っている女の子にアプローチする機会があっても、「なんだか急に気乗りしなくなった」と言って逃げてしまう。
こうしていくつかエピソードを挙げてみても、なかなか難儀な性質を抱えた青年である事がうかがえると思う。
読み終えてみて、苦悩しながらも親の金を展望乏しく浪費していく情けない様、最後には体調と精神を崩して入院してしまう様など、ある種救いのない堕落物語である点から、先に書いたように『人間失格』の葉蔵を想起させられた。
そして太宰同様ただのクズの自分語りでは終わらず、こちらの自意識に訴えかけてくるモノがあった。
冒頭で引用した妹のセリフは、厭世感に塗れてがんじがらめになった主人公が、ほぼ唯一心を許せる妹に会いにいく終盤の言葉だ。
ここで主人公は自らを苛む周囲の下劣さを妹に語ってみせるのだが、それへの切り返しが上述のセリフである。
兄さんが苦しいのは、自分の理想を他人に押し付けているその生き方が原因なのだと、単刀直入な火の玉ストレートをぶつける妹。
目を逸らしていた自分の根性を突かれ、主人公はたじたじで「うまく意識が集中できなく」なってしまう。
(ちなみに、タイトルのライ麦畑の意味はここで明らかになる。
現実のままならなさに嫌気がさした主人公は、「一面に広がるライ麦畑で遊びまわる子供たちが、道をそれて崖から落ちてしまいそうになった時、それを抱きつかまえて畑へ帰してあげるような仕事だけをしていたい」と理想を語るのである。)
この対話は印象的で、非常に痛烈かつ哀愁が漂う。
社会から拒絶され続ける原因を他人に求め、精神の安定を図る非建設的な生き様を、最も信頼している人間に真正面から否定されてしまう。
そして主人公は、妹からの愛ゆえの苛烈な忠言を受け止め切れず認知的不協和に陥るのだ。
感想
劇的な展開は少ないが、苦悩と痛々しさにじりじりと心を炙られるような感覚が味わえる。
純文学的小説を読むのは苦手なのだが、軽妙な語り口と解像度の高い情景描写で引きずりこまれてしまった。(特に、ニューヨークで売春屋に騙されて有り金をボッタクられるシーンは、作者の実体験かと見紛うようなリアリティだった笑)
本作は、タイトルのファンシーなイメージや、飄々とした訳文からは予測しがたい、厭世感に対する劇薬のような物語だ。
社会との折り合いに悩んでいる若い人や、エンタメだけでなく純文学も読んでみたいと考えている本好きの人などにぜひオススメしたい。
現代の情報戦小説、『プロパガンダ・ゲーム』を読みました
お久しぶりです。
最近、文章書いてお金になんねーかなぁとか思いつつクラウドワークスとかランサーズとかを眺めていたのですが、やっぱりああいうサイト経由の案件だと、時給制のバイトしてた方がいんじゃね?って思っちゃいますね笑
それでいてノルマ縛りなんかの条件もあったりするので、やっぱり趣味で文章書いてる方が気楽で楽しいなと再認識しました。
という訳で、最近サボり気味でしたがまたコンスタントに投稿していこうと思います。
さて、今回紹介するのは、仙台在住作家・根本聡一郎さんの『プロパガンダ・ゲーム』です。
本筋からは逸れますが、装丁のセンスが良いですね笑
敢えて引き合いに出すと、朝井リョウさんの『何者』感。
デザインには疎いんですが、顔のないスーツの若者が揃う画には、スタイリッシュかつどことなく不穏な良い雰囲気が伴います。
帯でも触れられていますが、あらすじは、最大手広告代理店の最終選考に臨んだ大学生8人が戦争派と反戦派に分かれ、SNS上の一般人100人に対して"扇動戦"を行うというもの。
ゲームの中身は実際に読んで楽しんでいただくとして、以下個人的に好きだった点を3つほど挙げようと思います。
1.馴染みやすい舞台設定
ぼくがつい数ヶ月前に就活を終えた大学生だからか、就活生たちの真剣味にシラけることなく、臨場感を持って読み進められました。
そうだよな、第一志望の最終選考ならこんだけアツなるよな〜という納得感があります。なんせ、将来的な所得の期待値が決まっちまいますからね。
就職選考上の模擬戦や、SNSという多くの人に親しみやすい要素があるおかげで、むしろ直接的なスパイ小説よりも情景が想像しやすく、彼らのプロパガンダの応酬に臨場感を感じられるのではないでしょうか。
スパイ小説だとどうしても、超人的な頭脳、身体能力を持ったスパイたち個別の活躍にフォーカスがあたりがちで、情報戦という要素は弱くなりがちですからね。
2.リアリティとフィクションのバランスが良い
実際に電通(と言ってしまって差し支え無いでしょう笑)には、ピンからキリまで非常に多様なバックグラウンドを持った人間が選考に挑むそうで、通常なら失笑してしまいそうな就活生たちのキャラ設定、モチベーションにも説得力があります。
ぼくは広告代理店は見ていませんでしたが、もし都内の大学生だったら説明会くらいは行ってみたかもしれません。
また、物語クライマックスでは陰謀論が取りざたされるのですが、それを扱った物語にありがちな、登場人物たちの、「実際にその陰謀を成し遂げる力があるか?」「その陰謀を遂行する動機はあるのか?」という面の説得力の欠落は克服されていると思います。
しかし、1で言及したような比較的身近な舞台設定だからこそ、こうした陰謀論が扱われるのは突飛に感じるという人もいるかとは思われます。
3.答えは読者に委ねられる
現実の大衆の動きを皮肉ったようなプロパガンダ戦、チーム内での意見の対立、クライマックスでの8人の決断など、あらゆる局面で、対立する人々の意見の両方を読者に提示することを意識して書かれています。開戦・反戦それ自体の思想的な是非は別として、どちらも公平に描写しようとの努力が垣間見えますね。
戦争、人種などのデリケートなテーマが現れる小説では、よっぽど文章が上手く無い限り、作者個人のイデオロギーが見えれば見えるほど臭みを感じてしまうのですが、そのような違和感は特に覚えずに読むことができました。
ゲームの流れそのものに関しても、両陣営側に二転三転する情勢が描かれ、どっちが勝つのかなーと素直に楽しめると思います。(両陣営には1人ずつ相手方のスパイが潜入しているのですが、特に反戦派スパイの活躍は、展開が読めていてもなかなかのインパクトがあります!)
以上3点が、自分が実際に読んでみて思ったおすすめポイントです。
一部キャラクターの印象の薄さなどがたまにキズでしたが、選考ゲームのエンタメ性、情報への姿勢についてのメッセージ性ともに楽しめる良い小説でした。
純粋に「扇動戦」「プロパガンダゲーム」を物語に取り入れている小説というのは案外珍しいのではないでしょうか?
(ぼくの印象だと、情報戦に"翻弄される"構造はわりとありきたりな一方で、情報戦を"互いに仕掛ける"という構造は、同じ情報戦モノでも斬新でした。)
就活に複雑な感情を持った若者、というぼくのバイアスが多分に作用していることは否めません(笑)
ですが、とても読みやすくかつエキサイティングな物語で面白かったので、おすすめです!