古典SF『幼年期の終わり』 の感想・考察
うじうじと過去を懐かしむようなことだけはしたくなかった 。余生を過ごしていけるだけの物資はある 。
何より欲しかったのは 、電子ピアノとバッハの楽譜だった 。これまでは音楽に時間を費やすことができなかった 。それをいまから取り返そうと決めていた 。(中略)ジャンは昔から優れたピアニストだった 。そしていま 、彼は世界最高のピアニストだった 。
新年の挨拶のために祖父母宅へ向かう電車の中で読んだこの小説がめちゃくちゃ良かったので、新年1発目の感想記事を書こうと思う。
この文章で本作への興味を引けるかはなんとも言えないが、ぜひ多くの人に読んでみてほしい作品だったので、もしよければ。
表紙はこちら。自分が読んだ版とは違うが、そこはご容赦ください。
あらすじ(光文社新訳版)
ある日、地球上空に巨大な宇宙船が現れ、宇宙船の主たち、オーヴァーロード(最高君主)と呼ばれる異星人は、超越的な知性と科学力で姿を見せぬまま人類を統治し、平和で理想的な社会を地球にもたらす。
その舞台設定の中で、
・未知との遭遇を果たした人類は、彼らとどのように関わるのか?
・オーヴァーロードたちの真の目的はいったい何なのか?
・そして、人類はどこへ向かうことになるのか?幼年期の終わりとはどういう意味か?
といった様々な視点から物語が展開していくのが本作の構造である。
この話は、いわゆるエイリアンへの抵抗を繰り広げるような宇宙戦争的なモノではない。
本作の世界では、序章が終わった時点で、人類は手も足も出ずに征服されきっている。
だが、その征服のあり方は非常に良心的(?)だ。
彼らは国連を介して人類に的確なアドバイスを与えながら、自身らの卓越した科学技術を駆使することで、みるみるうちに、争いが無く生活水準も向上した理想の世界を実現させる。
例えば、
・世界ではもはや計画的犯罪は起こりえない(犯罪に手を染めずとも、全人類が豊かな暮らしを送れる)
・思想対立を発端とする紛争も生じない(圧倒的な上位者が君臨したことで、人類レベルで思想の優劣を競う行為は無意味になった)
・環境の問題はオーヴァーロードたちの超越的テクノロジーによって解決
などなど。
読者が直感的に思い浮かべたような、理想のグローバル社会がそこに生まれたのだ。
しかし、オーヴァーロードたちは、なぜ地球人類にそのような恩恵をもたらし、管理・保護してくれるのか?
その根本的な目的は、彼らのだれも語ろうとはしない。第一章においては彼らはその姿すら現さない。
そうしたオーヴァーロードらのスタンスは、一部の地球人類のささやかな不信を買うことになる。実際、第一章、二章においては、オーヴァーロードに懐疑を抱いてしまった人間たちの果敢な行動を起点に物語が展開する。
そして、オーヴァーロードが飛来してから数十年。
もはや人類にとって彼らの存在があたりまえになり、オーヴァーロードネイティブとでも呼ぶべき新世代の子ども達が生まれたとき、彼らの目的は明かされ、物語はクライマックスを迎える。
感想
まず、ざーっと読んでの感想として、とても訳文がこなれていて読みやすい。平易ではあるけれど、原文著者が込めた皮肉やユーモアのニュアンスは上手く残されている。
また、SFとしてのテクノロジー描写自体も、たいして古臭さを感じさせない。
異星の様子をはじめとする数々の情景描写は、とてもスケールが大きくて美しい。
※以下、内容面のネタバレ
内容面で良かったのはやはり第三章。
オーヴァーロードたちの目的が明らかになり、地球人類の趨勢が決定づけられてからの描写だと思う。
オーヴァーロードたちは、実は宇宙を統べる超強力な精神体「オーヴァーマインド」に奉仕する種族であった。
その能力を活かして、宇宙に存在する知的生命体が、オーヴァーマインドの一部へと進化することを促進する役目を負わされている。
その進化の種として今回選ばれたのが地球人類というわけである。
そして、新世代の子供たちは、もはや親たち旧世代には理解の及ばぬ存在へと変貌を遂げ、最終的にはオーヴァーマインドへと進化し、彼らと一体化する。
この変貌・進化・統合の過程こそが、本作タイトル「幼年期の終わり」の意味であり、すなわち人類史の終わりだ。
この第三章で個人的にツボったのが、オーヴァーロード自身は、人類のようにオーヴァーマインドへ進化する可能性が無いと断言されていることだ。
確かに卓越した能力、科学技術、知性を持ってはいるが、しょせんそこまで。
彼ら自身はすでに完成されてしまっており、社会や種族としての発展はすでに袋小路だというのだ。
しかし、彼らは自らの運命に絶望しない。
数々の知的生命体の進化を促していく中で、どこかにその袋小路を打ち破る鍵がないかと懸命にあがいているのである。
卑近な例を出すなら、怪我して選手生命を絶たれてしまいながらも、コーチ、マネージャーに転身する人間の悲哀だろうか。
あるいは、自分には非凡な才能はないと知りながらも、作家の創作活動をサポートして名作を生み出そうとする編集者の涙ぐましさか。
この辺の切なさは本作の大きな魅力だと思う。
また、冒頭にも引用したが、ラストシーンである事情から、ジャンという旧人類の青年が唯一の人類の生き残りとして地球に残り、滅びを見届けることを選択する。
科学者だった彼は、自らの余生の短さを悟り、過去に才能の面で諦めたピアノに再度向き合い没頭する。なんせ彼は、今や世界最高のピアニストなのだから。
ここの、覆せない終わりを見据えつつも、自分のやりたいことに向き合うというシーンには、描写の美しさもありとても感動させられた。
考察
感想でも書いたが、ジャンやオーヴァーロードたちの、自分にはどうにもできない状況の中でもできることをする、足掻く姿の気高さのようなものが非常に強く印象に残った。
これはまさしく、著者クラークの読者へのメッセージではなかろうか?
いずれすべてが無に帰すとしても、虚無を克服して絶望に立ち向かうべきだ。
なぜなら、結果ではなくその過程こそが気高く美しいものだから。
そんな人間賛歌を、自分は本作から感じ取った。
- 作者: アーサー C クラーク,福島正実
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2012/12/21
- メディア: Kindle版
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2017年に読んだ本10選 前半
あけおめです。三日坊主に定評のある自分が、なんやかんや一年ブログを継続してたっぽいです。
時分柄、それっぽいことをやりたくなったので、2017年に読んだ本の中からオススメを簡単に紹介しようと思います。
長いですがよろしければ。
5:5で前後半に分けて公開します。
ここまで前半で、以下後半で。
- 『メタ倫理学入門』佐藤岳詩
- 『BUTTER』柚木麻子
- 『勉強の哲学』千葉雅也
- 『ライ麦畑でつかまえて』サリンジャー
以上10冊が昨年読んだ中での個人的ヒットですね。
蜜蜂と遠雷
それぞれ異なる背景を持つ 4人のピアニストが、「これを制したものは大成する」というジンクスのあるコンクールに挑む小説。
才能といかに折り合いをつけるか?という非常に自分好みなテーマが激エモな筆致で書き出されていて、すごく好みでした。
過去に個別記事も書いたので良かったらどうぞ(小声
幼年期の終わり
国家間共同の宇宙開発事業が実を結ぼうとしていたある日、地球にオーヴァーロードと呼ばれる異星人が飛来し、その圧倒的な知性と科学力に基づく統治によって、地球文明はかつてない平和を手に入れた。
彼らが人類に介入する目的は何なのか?オーヴァーロードとの関わりによって人類はどこへ向かっていくのか?……という小説。
つい先日読みましたが、まずこのあらすじに惹かれました。序章の時点で地球征服されてます笑
この小説のキモはやっぱり、オーヴァーロードたちの目論見が徐々に明かされていく二章後半〜三章の不穏な空気とワクワク感だと思います。
これ以上言及するとだいぶ核心に触れざるを得ないのでボカしますが、今読んでも全然古くない名作古典です。訳がこなれててめっちゃ読みやすい。
これもこないだ個別記事を乗っけたので読んで欲しいです。
銃
日々に退屈している男子大学生が銃を拾い、日常が狂いはじめるという小説。
ピース又吉がどっかでオススメしてたのを見て読みました笑
虚無感を凝縮した淡々とした文体と、拳銃に自我が侵食されていくような不安定な感覚がページをめくる手を進めます。
鬱屈とした、しかし平和な日常を一撃でぶち壊す拳銃の誘惑の危うさがヒリヒリと感じられて、自分だったらどうなるだろう?と考えるのが楽しかった作品です。
作者特有の虚無や希死念慮と戦う作風にハマったのもここからで、本作を読んだ後、ひと月ほどで他作品もフルコンプしてしまいました。
機龍警察シリーズ
テロ・犯罪がグローバル化した至近未来。
市街地戦に特化した、さながらモビルスーツのような次世代武装"機甲兵装"が兵器のトレンドとなった世界で、警視庁"特捜部"がテロ組織との闘いを繰り広げるという小説。
対テロ作戦の行方をサスペンス的に楽しむも良し、キャラクター間の因縁を人間ドラマ的に楽しむも良しの二度美味しい作品です。
これも個別記事書いてるのでぜひ。
サピエンス全史
人間をホモ・サピエンスという一種の動物として捉えた時、なぜここまでの繁栄を遂げることができたのか?
そして、その道のりを振り返ってみて、今後人類はどんな方向に進んでいくだろうか?というスケールの大きな問題を、著者の博識をもとに分かりやすく、皮肉の効いた口調で考察した大作。
言語や道具の使用は枝葉に過ぎず、「虚構を語る」という世界の認識の仕方こそが人類繁栄のキーだったというのが本作の主旨。
著者に言わせれば、神話も貨幣も国家も社会システムも全て、人間の能力が生み出した「虚構」である。
しかし、現実を超えた虚構を生み出し、共有し、団結できることこそが、人間の最大の武器である社会性を生んだのだと提唱します。
小難しい話は別として、本作がどういうテイストの本か1発で紹介できる画像があるので貼ります。
これで笑えるセンスの持ち主にはとてもオススメ笑
後半へ続く
とりま半分の5冊です。
どれもすげぇ面白かったので、チラッとでも興味がわけば是非。
できるだけ早く残り5冊の紹介も書き上げたいと思います。
コスパ思考の呪縛
タイトル通り、コストパフォーマンスについて考えてみた。
自分の不合理なカネの使い方への自戒と、そのちょっとの正当化が目的である。
極論と詭弁成分が多めだが、割と真面目に考えたので読んでもらえると嬉しい。
コスパとは
コストパフォーマンス【cost performance】
①要した費用と、そこから得られた成果との対比。コンピューター-システムの評価に用いる。
②支出した費用に対して得られた満足度の割合。(三省堂 大辞林 第3版より)
辞書的な意味だとこうなる。もちろん言及したいのは②の意味だ。
ビジネス界隈ではROI(Retrun On Investment) という言い方もあり、こっちの方が日常で言う「コスパ」のニュアンスに近いかも知れない。
コスパの呪縛
いつ頃になってこの言葉が一般に使われ始めたかはわからないけれど、その概念は大多数の人に根付いていると思う。
「コレをこの値段で買うのは妥当か否か?」「別の手段でもっと安く済ませられないか?」つまり「コスパはどうか」という感覚は、今の社会では老若男女問わず普遍的に、当然に備えているはずだ。
資本主義である以上、ある商品の価格を妥当だと思えるラインは千差万別だが、誰の中にもそのボーダーライン自体は存在している。
倫理を度外視すれば人の命だって買えてしまう社会だ。あらゆるものを金で買える世界では、あらゆる消費行動にコスパ概念はつきまとう。
もっと言ってしまえば、コスパ概念は売買行動に限らず当てはまる。リソースを費やして成果を得ようとする試みは全てコスパ概念の守備範囲だ。
イメージしやすいリソースの筆頭が時間だろう。「コレをするのにn時間費やすのは妥当か?」「もっと時短できるやり方はないか?」という問いは上記の問いと全く同じ構造だ。
こうした判断はまさしく人間の合理性のあらわれであり、合理性があるからこそ人間はこんなにも物質的豊かさを手にしたと言われる。
だからこそ、上記のようなコスパ概念は、普遍的なものであるだけでなく、とても強固なものだ。
しかし、ぶっちゃけコスパを追求するだけの生活って虚しくないだろうか?
コスパを追求すると、おのずと「生きるのに必要最低限の欲求を、必要最低限のコストで満たす」という行動原理が浮かび上がってくる。
考えてみれば自明だが、こんなことは不可能だ。
例えば食欲。これは生命維持に必要な栄養素を求める欲求である。これを最低コストで満たすと仮定してみよう。
人間、基礎代謝分のカロリーと一部の栄養素さえあれば生きるには事足りる。腹一杯コメだけ食って、あとはサプリメントでオッケーだ。もっと言えば、点滴だけでも人は生きていけるはずだ。
しかし、こんな食生活を実際に出来るだろうか? もちろん無理だ。
日常的な食生活は、それがフツーの人間の日常的な食生活である限り、食欲を満たすという目的に対してコスパが悪いのである。(もちろん、程度問題だ)
コスパの根源にある合理性こそ人の強みである。
そして、合理性を働かせ、適切なカネの使い方を考えなければ社会ではまともに生活できない。
(現代日本ならなおさらだ。若者の〜離れなんて言葉があるが、大体の〜離れは人々のコスパ意識の高まりに収斂するだろう。)
だが一方で、人間はどこかで贅沢しなければ、非合理でなければ生きていけないように出来ている。
身体を生かせるギリギリまでコスパを追求し、その他のことに一切リソースを割かないような生き方では、生きている意味を感じられない。精神の方が死んでしまう。
心の生存のために、どこかでコスパを度外視するべきなのである。
呪縛からの解放
とはいえ、基本的にコスパ重視で生活する現代人が節操なく諭吉をばらまいてみたところで、無駄金使っちまった!という自己嫌悪に襲われるだけだ。
人それぞれ「コスパの良さ」への判断基準が違うように、何にどれだけリソースを費やすのが幸せなのかも各々の資本力やパーソナリティによって異なるだろう。
安易なまとめになるが、コスパを度外視してでもお金をかけたいモノ、生きがいと言ってもいいかもしれないが、それがすでに見つかっている人はそこに邁進すべきだ。
一方で、自分がリソースを費やすに値するものが見つからない人は、それを探すこと自体にお金と時間を投資してみれば良いのではないだろうか。
そこで対象が定まれば御の字だし、もしなかなか見つからなかったとしても、その遍歴の過程そのものを楽しむことが出来るようになっているかもしれない。「自分探しの旅」そのものを贅沢に値する趣味にしてしまうのも1つのゴールとしてアリではなかろうか。
『ライ麦畑でつかまえて』ネタバレ感想
「兄さんは世の中に起こることが何もかも嫌なんでしょう」(本文より)
最近、文末のバリエーションをはじめとした語彙力の不足による不自由を感じております。
なので、よりストレスフリーに書くために常体でやってみようと思います。
(「いや大してボキャブラ増えてねーやん」は禁句の方向で)
さて、今回はサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』について書きたい。
本作、タイトルだけは聞いたことがある人も多いはずだ。
かく言う自分もその一人で、不朽の名作だとか言われていることは知りながらもつい最近まで読もうとも思わなかった。
余談だけれど、古典的名作という枕詞がつく作品の多くは、義務教育でもない限りあまり触れる機会が無いのではなかろうか。
個人的には、本屋の店頭で平積みになっている新鮮な作品に目を奪われることの方が多い。
映画なんかだとより顕著で、観るのに手間と時間がかかるため、なんらかの使命感や功名心を持った人種以外はよっぽどのことがないと古典の視聴には踏み切らないイメージがある。
https://magazineworld.jp/brutus/brutus-859/
この雑誌のような特集記事が組まれるのも、そんな古典映画の性質を裏打ちしていると言えるのではないだろうか?(もちろん偏見である)
そんな感じでなんとなーく読まずにいて、なんとなーくAmazonでポチってみた本作。
読んでみれば、上述のような古典文学への食わず嫌いを克服してみようと思えるようになった。
あらすじ
一言で言うなら、海外版「人間失格」といった感じだった。
寂しがり屋&皮肉屋コミュ障&人間関係潔癖症と三拍子揃った主人公が必修科目を落第して高校を放校され、葛藤と自暴自棄を抱えながらニューヨークを三日三晩さまよい歩くのが本作の大筋である。
誤解を恐れず乱暴に言ってしまえば、物語の中で主人公ホールデンは全く成長しない。作中終盤で言及される通り、彼が邁進するのは堕落への道だ。
ある書評では、読み終えた後、試しに最初から読み返しても全く違和感がないとまで書かれていた。
主人公の造型をもう少し詳しく紹介してみる。
浪費家にして重度のアル中・ニコ中で、周囲の人間を「酒と煙草とセックスの話しかできない低脳」「退屈で不潔なウスノロ」「自己顕示欲に支配されたインチキ野郎」だと見下し、溺愛する妹や、尊敬する恩師からの進言も素直に聞き入れる事が出来ない。
ついでに言うなら、憎からず想っている女の子にアプローチする機会があっても、「なんだか急に気乗りしなくなった」と言って逃げてしまう。
こうしていくつかエピソードを挙げてみても、なかなか難儀な性質を抱えた青年である事がうかがえると思う。
読み終えてみて、苦悩しながらも親の金を展望乏しく浪費していく情けない様、最後には体調と精神を崩して入院してしまう様など、ある種救いのない堕落物語である点から、先に書いたように『人間失格』の葉蔵を想起させられた。
そして太宰同様ただのクズの自分語りでは終わらず、こちらの自意識に訴えかけてくるモノがあった。
冒頭で引用した妹のセリフは、厭世感に塗れてがんじがらめになった主人公が、ほぼ唯一心を許せる妹に会いにいく終盤の言葉だ。
ここで主人公は自らを苛む周囲の下劣さを妹に語ってみせるのだが、それへの切り返しが上述のセリフである。
兄さんが苦しいのは、自分の理想を他人に押し付けているその生き方が原因なのだと、単刀直入な火の玉ストレートをぶつける妹。
目を逸らしていた自分の根性を突かれ、主人公はたじたじで「うまく意識が集中できなく」なってしまう。
(ちなみに、タイトルのライ麦畑の意味はここで明らかになる。
現実のままならなさに嫌気がさした主人公は、「一面に広がるライ麦畑で遊びまわる子供たちが、道をそれて崖から落ちてしまいそうになった時、それを抱きつかまえて畑へ帰してあげるような仕事だけをしていたい」と理想を語るのである。)
この対話は印象的で、非常に痛烈かつ哀愁が漂う。
社会から拒絶され続ける原因を他人に求め、精神の安定を図る非建設的な生き様を、最も信頼している人間に真正面から否定されてしまう。
そして主人公は、妹からの愛ゆえの苛烈な忠言を受け止め切れず認知的不協和に陥るのだ。
感想
劇的な展開は少ないが、苦悩と痛々しさにじりじりと心を炙られるような感覚が味わえる。
純文学的小説を読むのは苦手なのだが、軽妙な語り口と解像度の高い情景描写で引きずりこまれてしまった。(特に、ニューヨークで売春屋に騙されて有り金をボッタクられるシーンは、作者の実体験かと見紛うようなリアリティだった笑)
本作は、タイトルのファンシーなイメージや、飄々とした訳文からは予測しがたい、厭世感に対する劇薬のような物語だ。
社会との折り合いに悩んでいる若い人や、エンタメだけでなく純文学も読んでみたいと考えている本好きの人などにぜひオススメしたい。
現代の情報戦小説、『プロパガンダ・ゲーム』を読みました
お久しぶりです。
最近、文章書いてお金になんねーかなぁとか思いつつクラウドワークスとかランサーズとかを眺めていたのですが、やっぱりああいうサイト経由の案件だと、時給制のバイトしてた方がいんじゃね?って思っちゃいますね笑
それでいてノルマ縛りなんかの条件もあったりするので、やっぱり趣味で文章書いてる方が気楽で楽しいなと再認識しました。
という訳で、最近サボり気味でしたがまたコンスタントに投稿していこうと思います。
さて、今回紹介するのは、仙台在住作家・根本聡一郎さんの『プロパガンダ・ゲーム』です。
本筋からは逸れますが、装丁のセンスが良いですね笑
敢えて引き合いに出すと、朝井リョウさんの『何者』感。
デザインには疎いんですが、顔のないスーツの若者が揃う画には、スタイリッシュかつどことなく不穏な良い雰囲気が伴います。
帯でも触れられていますが、あらすじは、最大手広告代理店の最終選考に臨んだ大学生8人が戦争派と反戦派に分かれ、SNS上の一般人100人に対して"扇動戦"を行うというもの。
ゲームの中身は実際に読んで楽しんでいただくとして、以下個人的に好きだった点を3つほど挙げようと思います。
1.馴染みやすい舞台設定
ぼくがつい数ヶ月前に就活を終えた大学生だからか、就活生たちの真剣味にシラけることなく、臨場感を持って読み進められました。
そうだよな、第一志望の最終選考ならこんだけアツなるよな〜という納得感があります。なんせ、将来的な所得の期待値が決まっちまいますからね。
就職選考上の模擬戦や、SNSという多くの人に親しみやすい要素があるおかげで、むしろ直接的なスパイ小説よりも情景が想像しやすく、彼らのプロパガンダの応酬に臨場感を感じられるのではないでしょうか。
スパイ小説だとどうしても、超人的な頭脳、身体能力を持ったスパイたち個別の活躍にフォーカスがあたりがちで、情報戦という要素は弱くなりがちですからね。
2.リアリティとフィクションのバランスが良い
実際に電通(と言ってしまって差し支え無いでしょう笑)には、ピンからキリまで非常に多様なバックグラウンドを持った人間が選考に挑むそうで、通常なら失笑してしまいそうな就活生たちのキャラ設定、モチベーションにも説得力があります。
ぼくは広告代理店は見ていませんでしたが、もし都内の大学生だったら説明会くらいは行ってみたかもしれません。
また、物語クライマックスでは陰謀論が取りざたされるのですが、それを扱った物語にありがちな、登場人物たちの、「実際にその陰謀を成し遂げる力があるか?」「その陰謀を遂行する動機はあるのか?」という面の説得力の欠落は克服されていると思います。
しかし、1で言及したような比較的身近な舞台設定だからこそ、こうした陰謀論が扱われるのは突飛に感じるという人もいるかとは思われます。
3.答えは読者に委ねられる
現実の大衆の動きを皮肉ったようなプロパガンダ戦、チーム内での意見の対立、クライマックスでの8人の決断など、あらゆる局面で、対立する人々の意見の両方を読者に提示することを意識して書かれています。開戦・反戦それ自体の思想的な是非は別として、どちらも公平に描写しようとの努力が垣間見えますね。
戦争、人種などのデリケートなテーマが現れる小説では、よっぽど文章が上手く無い限り、作者個人のイデオロギーが見えれば見えるほど臭みを感じてしまうのですが、そのような違和感は特に覚えずに読むことができました。
ゲームの流れそのものに関しても、両陣営側に二転三転する情勢が描かれ、どっちが勝つのかなーと素直に楽しめると思います。(両陣営には1人ずつ相手方のスパイが潜入しているのですが、特に反戦派スパイの活躍は、展開が読めていてもなかなかのインパクトがあります!)
以上3点が、自分が実際に読んでみて思ったおすすめポイントです。
一部キャラクターの印象の薄さなどがたまにキズでしたが、選考ゲームのエンタメ性、情報への姿勢についてのメッセージ性ともに楽しめる良い小説でした。
純粋に「扇動戦」「プロパガンダゲーム」を物語に取り入れている小説というのは案外珍しいのではないでしょうか?
(ぼくの印象だと、情報戦に"翻弄される"構造はわりとありきたりな一方で、情報戦を"互いに仕掛ける"という構造は、同じ情報戦モノでも斬新でした。)
就活に複雑な感情を持った若者、というぼくのバイアスが多分に作用していることは否めません(笑)
ですが、とても読みやすくかつエキサイティングな物語で面白かったので、おすすめです!
ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』を読みました
以前購入報告だけして、残り3分の1ページ程度で積んでいた本作ですが、ひとまず読みきりましたのでこれについて書こうと思います。
学問としての文学、メタな視点、俯瞰的思考、哲学、皮肉(笑)などが好きな人にはすごくオススメの本でした。
この本の主題はずばり「もっと気楽に読んで書いて語ろうぜ」ということではないでしょうか。
この本は、未読の程度、語る必要のある状況、語る際の心構え、という三部構成で進む中で、再三、読書体験の曖昧さ、不確定さ、主観性を強調します。
より詳細に言うと、そもそも読書において「完読」という状態は、ラーメンの完飲とは違って定義不能だということを説明しており、それゆえ、他人と本について語る際にも、誰にも本当に読んでいるかどうかを確かめようがないという事です。
これがなぜ起こりうるのかという理由については、ひとえに人間の記憶や認知の曖昧さが原因だと書かれています。
実際、「一度完読したはいいものの内容をあまり覚えていない本」と、「あらすじは知っているが一度も開いたことがない本」の間に、実質的にどんな違いがあるのか?と問われてしまえば、自己満足以上の回答を返すのは非常に困難です。
だからこそ、臆せず未読の本についても積極的に語ってしまえばいい。書物への神聖視やコンプレックスゆえに、知的に鈍重になるのは避けろ。というようなメッセージを著者は込めているのでしょう。
また、こうして三部に分けて読書神聖視を解きほぐそうとする中で、"本について語る行為"そのものの意義についても言及しています。
これはつまり、批評行為をどのように捉えるかということですが、著者は、批評はもはや対象と独立した創造性、芸術性を備えているのだとします。
それはさながら、芸術家が風景を描く際の対象はそのモチーフにあるが、その作品の素晴らしさは芸術家の創造性に由来する、という芸術と主題の関係です。
そして、批評がなぜこうした独立性を持てるのかというところに、著者の上述のような思考が反映されています。
批評行為は著者にとって、その本が他の本との関係の中でどのような位置付けにあるか、その本には描かれていないどのような周辺イメージが得られたか、その本を通じて自分のにどのようなインスピレーションがあったかを述べるものだと言います。
この本の中では過去の作家たちの批評などが引用されますが、事実このいずれかの体裁をとっているように見えます。
つまり、文学上の位置付け、あらすじや断片、本を通じた自分についてを語るだけで、本の批評は成り立つのだということを論証していると言えます。
これらの要素には、本を精読している必要はほぼありません。そして、このように批評と原作に距離があっても批評行為が可能だからこそ、前述した独立性が成り立つのです。
そして、こうした文学的な態度を取る上では、その本が書物全体の中でどのような位置付けにいるか、その本の概略・趣旨がどのようなものかという理解だけがあればいいとのこと。ここでは、精読はむしろディテールに足をとらわれて俯瞰的な理解を妨げうるものだとしています。
タイトルがハウツー本っぽくはありますが、実際にハウツーな要素があるのはこの辺くらいです。逆に言えば、こうした、浅くとも俯瞰的な理解が文学的教養の真髄だと著者は考えているのでしょう。
感想文ブログなんて書いている身としては、実際にこの本を読んでいてかなり勇気をもらえたと共に、面白い感想解説記事を書くことの難しさを痛感させられた思いです。
上述の、批評の創造性のところで著者も言及している通り、面白い批評文はある意味で原作から乖離しているんですよね。ただ本の感想を書いたり、本の内容を紹介するだけでは、読書感想文や書店のPOPと変わらないってことでしょうか。
こういうブログをやってる以上、やっぱり人並みの虚栄心なんかは持ち合わせているわけですが、その本から得られた周辺イメージなど、意識的には出来てないとこで参考にできそうなものが多かったので、今後とも文章力向上を目指して散文を書き連ねたいなと思います。
冒頭の通り、自分の思考回路なんかを立ち止まって一歩引いて眺めてみたい方にはオススメです。
伊坂幸太郎『アイネクライネナハトムジーク』を読みました
この週末、仙台ではストリートジャズフェスティバルなる催しが行われ、街中は歌やアコースティックバンドで賑わい、夏の終わりの寂寥感を吹き飛ばす様な活気に満ちています。
自転車移動が億劫になるレベルで道が混むのがたまにキズですが、こうしたイベントが毎シーズン盛んなのが仙台の良いところだと思います。
そんなことを考えながらフラついていたら、この間読んだ伊坂幸太郎作品を思い出したので感想書いてみようと思います。
今回読んだのは『アイネクライネナハトムジーク』。伊坂作品には珍しく、恋愛が主題におかれた連作短編集で、各々の物語では、キャラ達の初々しい出会いがフォーカスされています。
元々の執筆のきっかけは、あの斉藤和義から受けた作詞のオファーだそうで、「詩は書けないが物語なら」と"出会い"をテーマにした短編を提供したとのこと。その際描かれた巻頭短編がベースとなったのが本作です。
こうした風変わりなきっかけゆえか、作中には"斉藤さん"なる占い師の様なサブキャラが随所に登場し、それらのシーンでは斉藤和義の曲が引用されています。
生憎ぼくは斉藤和義には疎いのですが、ファンの方はより一層楽しめるのでは。
さて、伊坂幸太郎の魅力と言えば、超絶技巧じみた構成、飄々として魅力的なキャラクター、そして仙台愛(笑)ですが、本作でもそれらがふんだんに発揮されています。
余談ですが、伊坂作品の映像化は大半がキッチリ仙台で撮られてます。
まず構成に関してですが、『グラスホッパー』『アヒルと鴨のコインロッカー』などで見られたような、小さな情景描写を後のクライマックスの呼び水にするような書き方が、相変わらず非常に見事ですね。
例えば、作中の一編『ライトヘビー』では、語り手の女性が電話越しの男と仲を深めていく様子が描かれるのですが、男の正体が明かされた時の驚きと納得感はとても気持ち良かったです(笑)
「男が電話に出られない時期」「友人の読んでいる雑誌の記事」など、初見では気づけないような小さなヒントが散りばめられていたことに後から気づき、爽快に驚かされることが出来ます。
こうも上手く驚かされると、『アクロイド殺し』や『殺戮に至る病』のようなガチガチの叙述トリックミステリーを作者の手で書いて欲しいと思わされますね。『アヒル〜』の構成は割とそんな感じでしたが。
また、短編を跨いだ登場人物たちの関係性の面白さも健在ですね。
本作ではほぼ全ての登場人物が2つ以上の短編を跨いで現れており、従来作品に増して相関図が複雑なのですが(笑)、そのぶん多角的な人物像が垣間見えて味わい深いと思います。
また個人的に気に入ったのが(タイトルは覚えていないのですが)、地下駐輪場の無銭利用者を突き止める高校生たちの話でした。
市民にはお馴染みなのですが、仙台には街中に地下駐輪場が備わっており、その絶妙な使いにくさは最早定番ネタと化しています。それこそ、¥60をケチって路上駐輪する老若男女が後を絶たないほど。
こんなもんどう料理するんだと言いたいスーパーローカルネタを取り上げつつも、上述した作者の強みや高校生男女の纏う青春感は遺憾無く発揮されており、改めて、伊坂幸太郎の筆力には舌を巻くばかりです。
これくらいで今回は終わります。
伊坂ファン、斉藤和義ファンには勿論のこと、仙台市民や日常系のエンタメが好きな人は是非読んでみてほしいなと思います。