学生読書日誌

ハッピーヘブンのふきだまり

主に読書感想文をかきます

就活終了しました

タイトル通りです。

就活終了です。


こないだ書いた記事のうちの最終面接で無事内定を取り、約1年超の就職活動が無事終了しました。

口座か焼け焦げ、母親に泣きつき、どうなることかと思ってはいましたが、上手いこと終わって本当に何よりです。


取り急ぎは英語学習の必要が急浮上したので、今後は大学通って本読みつつバイトしつつ、無事に卒業&入社を決めて社会人になったろうと思います。

内定者課題や研修から中々の難関という雰囲気が濃厚に漂ってますが、面従腹背をモットーに結果を出したいですね。


短いですが、この辺で。

7/27

何を読んだわけでも見たわけでも語りたいわけでもないんすけど、とりまの日記です。


こないだの感想記事が出版社の広報アカの目に留まったぽいんですけど、RTはしてくれませんでした。限界オタク感出してたからかな。


さて、現在リスクヘッジで内定持ってる企業の内定承諾期限がとりあえず8/31なので、昨年5月末からずーーっとやってる就職活動もタイムリミットが迫ってきました。親からのまとまった援助を受けずにやっていくにはそろそろ限界も来ていたので、ちょうどいい頃合いでしょうか。


んでそんな中今週は4社ほど訪ねてきて、先ほど帰宅しました。訪ねたうち1は最終面接。まーぁそんな勝算高くなかったすけどあんま気にせず。訪問した中で良さげな企業もあったんで、週一上京は適度に継続して内定でたら御の字な感じで頑張ります。

今受かってる企業もまあ悪いとこではなさそうなんで、もしまた全落ちしてもゴリゴリっとスキルを吸収して2〜3年で栄転したろうと思います。


今日帰宅したと書きましたが、道中の高速バスでエッセンシャル思考がどうのというビジネス書読んだんですよ。

直近で読んだ本に影響されやすい気質故なのかもしれないですけど、一時期鬱病直前まで突き落とされた就活も、あと1ヶ月って期限がバチッと定まったことでわりとフラットな気持ちで臨めそうっす。期限&目標の設定、大事ですね。


さて、就活、もう二度とやりたくはないんですけど、

・プライドと諦観のバランス感覚がついた

・無数に人前で喋る経験を得た

・負け組カテゴリに分類されてしまったおかげで、平和ボケしてたコンプレックスエンジンがゴリゴリ燃え始めた

などなど、今後アグレッシブに生きていくためのいい経験ではあったかなと思います。


メタ的、俯瞰的に就活構造を嘲笑いつつ、しれっといいトコ決めちまうような就活をしてた人間はまあ特にネットとかでよく見ましたけど、結局自分はそうはなれなかったんで、無理しない程度にポジティブに頑張りたい。

結局、実家の財政はクソやばいし、自分自身の虚栄心もバリバリ現役だし、なんやかんやちゃんと社会コミットしなきゃ生きてけないんですよねぇ。世知辛え。


取り急ぎ金欠がまずい。

来月のクレカ引き落としがすでに予定収入を上回っている。

柚木麻子『BUTTER』:しがらみに苦しむ現代人にオススメの直木賞候補作

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"「何からも追い詰められていない人間を見ると心が苛立つように、誰かにコントロールされているみたい。前にダイエット強制するようなこと言ってごめんね。なんだかね、やわらかくて豊かでのんびりしていく里佳を見ると、不安になったの。恥ずかしいけど、私の好きだった、王子様からどんどん離れていくように見えて」"
(本文より)

メモ帳コピペにつきフォントが不安定かもしれません、ご容赦下さい。


今年の直木賞芥川賞が発表されました。ちょうど発表会見の直前に神保町の三省堂にいて、特集が組まれていたので気になってしまいました。普段からチェックしているわけではないんですけどね。

惜しくも受賞は逃したようですが、候補作のうち一つが今回ご紹介する柚木麻子さんの『BUTTER』です。読んだのが少し前で記憶が曖昧なので詳細度はビミョーですが、よろしければお付き合い下さい。

ひと昔前の、木嶋早苗による結婚詐欺殺人事件から着想を得て書かれたという本作。連続殺人容疑で拘留されている梶井に対して、記者である主人公里佳が独占インタビューを試みて面会を繰り返すうちに、梶井の影響力に周囲の人間関係もろとも身を以て翻弄されていくというストーリーです。
タイトルにもなっており、里佳がグルメの梶井と交流していく中でも再三言及される良質なバターのような、読みやすくかつ濃い読後感の小説でした。
純粋なエンタメ作品としてみても、二転三転する展開にはらはらさせられます。事件を追いながら、獄中の容疑者にじわじわと心身を侵食されていく里佳の様子にページが止まらず、深夜のヒトカラボックスで一気読みしてしまいました。おかげさまで翌日からの生活リズムはぶっ壊れましたが笑

しかし、自分に印象強く残ったのは本作の現代社会風刺のメッセージ性です。
バリキャリ記者里佳をはじめとした、常識やジェンダー等の社会規範に縛られ窮屈さを感じながら生活している人々と、男を手玉にとることで自分の欲望を際限なく発散する梶井との対比から、上に引用したような「苦労していない人間は許せない」という最近の社会に漂う圧迫感、閉塞感をきれいに浮き彫りにしています。
自分は苦労を乗り越えてやってきたんだ。ヌルい人生送っている連中に我慢がならない。こんな感情に心当たりがある人も多いのではないでしょうか。虐待の連鎖や部活動での理不尽な上下関係など、似たような構造の現象は山ほどありふれている気がします。
お恥ずかしながらぼくは、どうしても他人に対してこう感じてしまう側の人間です。情けは人の為ならずと言いますが、何よりも自分が許されるためには他人を許さなければいけません。
読みながら、矛先がこっちを向いているな。この辺改めないといけないなと思わされました。
実際作中では、梶井との面会を継続している影響で太り始めてしまった里佳に対して、恋人、親友、同僚などから予想もしていなかったほどの叱責が飛んできます。その過程を経て、里佳は「人々が秘めている放漫に生きる人間への嫉妬」「他人へのあるべき姿の押し付け」という風潮を発見し、自分もそうした黒い感情やある種の偏見を他人に抱いてしまっていることを自覚します。

しかし、物語が終盤へ近づき、梶井の人物像が徐々に深掘りされ、事件の輪郭が明らかになっていくにつれて、上記のような、"他人という存在"に無意識的につきまとう様々なしがらみを振りほどいていく里佳の様子には、きっと爽快感と勇気をもらえると思います。

本作は、梶井の脅威と事件の全貌に迫っていくエンタメ的な面白さと、事件を通して里佳が自他への優しさ、寛容さを掴み取っていく成長物語のような面白さと、一粒で二度美味しい小説でした。
柚木麻子さんの著作は本作の後に数冊読んだのですが、いずれも、時にこちらの内面にまで切っ先が届いてくるキレッキレの風刺と、様々な壁に果敢に立ち向かい、各々が抱える問題を乗り越えていくたくましいキャラクター像が非常に魅力的です。
直木賞候補にもなった力作ですので、ぜひ読んでみて下さい。


就職戦線異状有り

就活全落ちしました

はい。

16年5月末ごろから、国家公務員への道を絶ち民間企業のサマーインターンに応募を初めて苦節1年1ヶ月、本選考に乗り始めたのは11月末なので厳密には7ヶ月。現在の選考中企業、ゼロです。0。零。○。ベンチャーを中心に35社ほどには本選考で接触したはずですが、流石に無残ですね……。

大学二年の時に『何者』を読み、絶対にこの主人公にはなりたくねえなと思っていた姿がここにあります。

周囲の人間関係の分析者気取り。俯瞰的視点といえば聞こえはいいが、その実どこかで周囲の人間に優越感を覚えているだけ。そして就活では、最終的に独り、勝っていると思っていた人間たちに周回遅れを食らっている。非常に不本意ながら、どこか親近感を覚えてしまう構図ですね。

フィクションの人物なので、安直な同一視からは何も生まれないとわかってはいます。実際あそこまで性格悪くはない、と思いたい笑

 

学生支援機構の無利子奨学金は留年には対応していないであろうと思われるため、マトモに学生やれるのは多分今年度までなんですが、就活留年欲求が出てくる今日この頃。まあ、敗残兵を気取っているうちにも時間とお金は日々消えていきますから、腐らず夏採用にも臨むつもりですが、体育会系と留学生のセーフティネットと称されるこの制度の中でどこまで戦えるか、正直不安が大きいです。

ただまあ心境としては、ちょっと今は一休みしたい感覚ですね……。

実際、つい先ほど唯一の選考中企業からお祈りメールが来たとき、素直な感想として「あぁ、これでひとまず東京行脚がひと段落着いた。」と思ってしまいました。もう一度ESを一から書き直し、業界知識を仕入れ、志望動機をアジャストし、夜行バスで苦痛と睡眠不足に耐えながら上京して面接を受ける。このプロセスに思いを馳せると少し、いや正直に言うと並々ならぬ億劫さを覚えます。細く長くではありますが、この一年就活に専念し続けてきた自負がありながら結果が伴わないこの状況、ぼくの継戦士気を萎えさせるにはわりと十分でした。

気持ちが前を向けるまで、小説読んだりブログ書いたり友人と会ったり、しばらくフラフラしてようと思います。

 

一体何がダメだったのか?

とはいえ、敗北という結果を受け止めたからには、次につなげるための反省をしておきたいところ。そう思いこのテーマを中見出しに置いたわけですが、正直わかんないんですよね笑 もちろん、キャリア観の曖昧さ、好感を与えるためのコミュ力等々細々した要素は思い浮かぶのですが、あるところで否定された側面があるところでは有効だったなんて経験は腐るほどあり、現状を決定づけるほどの強い要因ではなかったと思うんです。

しかし、一年間やってきてクリティカルな敗因がわからない。この事実そのものが自分の惨めさを際立たせますので、なんとか一つひねり出したところ、志望先と自分の(面接の場で無意識に顕在化していると思われる)適性があっていなかったのかもしれないという考えに思い至りました。つまり、ベンチャーじゃなくて大手受けてればってことですね。

これはどうなんでしょうか。ぼくとしては以下の先日のエントリで書いたような考えのもと合理的だと感じてベンチャーを受けており、その考えのプロセスを面接の場でも伝えていたつもりでした。しかし、結果は雄弁です。もしかしたら、こうしたある種保守的な合理主義そのものが合わないと判断されていたのかもしれません。だったらベンチャーに合う人間ってマジでどんなやつだよと思ってしまうのですが、結局「仕事を通じてやりたいことがある人」という月並みな解答になるのでしょうか。

 

kyuteisyukatsu.hatenablog.com

 

とりあえず、心身がアクティブになったら、大手企業の夏採用を中心に再び就活戦線へ躍り出ようと思います。

 

 

 

最高最悪の映画『22年目の告白 -私が殺人犯です-』を観ました

おはようございます。今日も面接前の暇つぶしに、御苑前のファミレスからお届けしております。

内定は未だ出ません。誰かwebライターとかのオファー下さい。


笑えない冗談はさておき、久々にパワーがある映画を見たので感想書きたいと思います。核心部分のネタバレ無しで、見た当時のガチ感情を綴っていくつもりなので、普段よりは文章の精度とか落ちると思いますが、その分何も考えずに流し読みできると思います。


さて、今回は藤原竜也伊藤英明のW主演『22年目の告白 -私が殺人犯です-』を見ました。ジャンル分けするなら社会派サスペンスってとこでしょうか。


過去に5人もの連続殺人を遂げていながら、刑訴法の改正時期の関係でまんまと時効を手にしてしまった男が、事件についての「告白本」を出版し、世間を大きく騒がせるところから話が始まります。

"殺人犯"の行動は記者会見に始まり、告白本のサイン会、youtubeでのインタビュー、被害者遺族訪問とやりたい放題。告白本も爆売れベストセラー入り、その甘いマスク(藤原竜也)から女性ファンもみるみる急増。遺族たちはもちろんブチギレ。

そして、過去に事件を担当しながらも犯人を検挙出来なかった刑事は、沸き立つ世間の中、もはや法では裁けなくなったこの犯人に対してどう向き合うのか?


あらすじはざっくりこんな感じです。この時点で悪趣味ですね笑  

司法の守備範囲を超えた社会悪、その話題性にしか目が向かない愚かな大衆、そして、死刑に値する罪を犯していながら絶対安全を自覚し、傍若無人に振る舞う犯人。徹夜明けにラーメン二郎を提供されるようなヘビーさです。観客が「真面目」であればあるほど、この構造は醜悪に映るでしょう。ぼくはこういうの好きです笑

しかし、鉄板をぶん殴ると、拳の痛みと引き換えにいい音が響くものです。社会の穴を的確にエグって観客の正義感に鈍痛を食らわすことで、この映画の問題意識はダイレクトに届いてきます。


言ってしまえばありふれた「裁けない悪」というテーマですが、恋愛モノで「認められない恋」が必ず盛り上がるのと同じで、倫理と感情の葛藤は決して陳腐化しません。パワーは健在です。


また、テーマのパワーを最大限引き出すための演出もきめ細かく工夫されてます。

刑事や遺族たちが当時を思い出す際のフラッシュバック、記者会見の際のおぞましくも鮮烈な映像投影などなど、焦燥と不快を掻き立てる程よい音響と併せて見ていて飽きません。

もちろん演技も申し分ない。こういう作品は被害者遺族の演技にフラストレーションを晴らす機能が求められがちですが、役者は皆、殺意満タン嘆き爆発といった正統派演技を堂々と見せつけてくれます。藤原竜也のダークヒーローっぷりも良いです。

巷では、「藤原竜也主演作品はハズレ無し説」が囁かれているようですが、なんだか納得してしまいました。


さて、ここまで長々とあらすじでも推測できる範囲のストーリーにしか言及していないのですが、実はコレ、ただの問題提起作品ではありません。純粋なエンタメとしても、非常に楽しませてくれます。

その要素を詳細に語るとネタバレなので控えますが、とにかく後半の展開が怒濤。物語は途中から全く異なる色を見せます。

そこからはかなりケレン味が強くなるのですが、多少のアラは吹き飛ばして観客を引っ張っていきます。そういう意味でもパワフルな映画です。

もちろん、展開が加速した後にも悪趣味要素は健在笑  個人的にはラスト2シーンで制作者たちの悪意にどっぷり浸ることが出来ました。シーン自体の意外性は薄いのですが、しっかり王道を押さえてます。

ネタバレを控えつつ後半の展開のキーワードを考えるなら、「因果は巡る」って感じになるでしょうか。ぜひとも劇場でその真価を確かめていただきたいです。



そんなわけで、この辺で終わりにしたいと思います。

直近の映画の中では激推しなので、ぜひ見ていただきたい。『怒り』とか好きな人にはハマると思います。

それでは。


夏目漱石『私の個人主義』を読みました

就活の持ち駒が欠乏している状況ですが、構わず読書に浸っております。しゃーないっすね。夜行バス疲れたし。結局人生いかに(公共の福祉の範囲で)楽しむかですよ。他人との比較を辞めて、自分が充実できるコトを見出せてれば、多少内定が遅れたって大した問題ではないでしょう。そんないい意味での自己本位さ、個人主義な生き方を目指していければいいと思います。

というわけで、今回は夏目漱石の講演集『私の個人主義』について短めに書きたいと思います。自然な導入がキマりました。やったぜ。

この本は、漱石晩年の演壇での講演5本を活字に起こしてまとめたものです。『道楽と職業』『現代日本の開化』『中味と形式』『文芸と道徳』『私の個人主義』の5講演からなります。現代〜は国語の教科書にも載ってた覚えがありますね。

さて、ここでは表題作からちょいちょい引用しつつ感想考察みたいなスタイルでいこうと思うのですが、その前に概括をひとつ。

全体として感想を書くなら、「古典の古典たりえる凄さがわかった」って感じです。より砕いて言うなら、ここで書かれてる漱石の思想は現代にも普遍的に通じるんです。時代の淘汰に耐えうる著作はやっぱりそれなりの強靭さがあるんでしょうね。それを実感したのが本作でした。

まあ、よりうがった見方をすれば、人間や社会の懸念点、問題点なんぞは100年経っても変わんねえってことでしょうが笑

そう考えると西洋哲学ってスゴイですよね。なんせ、本質的には全然変わらない人間っていう材料を元に、あんだけコツコツと学問体系を積み重ねてきたワケですから。そんだけの段階的発展を可能にした触媒が、神とか真理とかの西洋宗教だってのを考えると、神学にも興味を惹かれますね。(まあ哲学の場合、時代に"最適化"した"善い"生き方を探るという姿勢が発展を後押ししたのはあるでしょうが)

閑話休題です。内容に入りましょう。以下引用。

"私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。彼ら何者ぞやと気概が出ました。今まで茫然と自失していた私に、ここに立って、この道からこう行かなければならないと指図をしてくれたものは実にこの自己本位の四字なのであります。"

以上引用。学習院大学の学生に講演した表題作の一節です。漱石は東大を出て何度か教職に就いたのち、イギリス留学中に学者としてのアイデンティティに悩みます。時代背景もあってか西洋の思想がとりあえず全肯定されるような風潮にあって、借り物の、西洋風の付け焼き刃の知識だけで持て囃されることに物足りなさを感じていたようです。そこで彼は、結局この不安を解消するためには、一から自分にとっての文学の概念を確立するしかないと気づいたと言います。ちなみに上記に出てくる「彼ら」とは西洋人を指します。

また漱石は、これは学問や芸術に留まるところではなく、生き方全体の問題なのだと言います。以下引用。

"もし貴方がたのうちで既に自力で切り開いた道を持っている方は例外であり、また他の後に従って、それで満足して、在来の古い道を進んで行く人も悪いとは決して申しませんが、(自己に安心と自信がしっかり附随しているならば、)しかしもしそうでないとしたならば、どうしても、一つ自分のツルハシで掘り当てるところまで進んで行かなくっては行けないでしょう。

行けないというのは、もし掘り当てることが出来なかったなら、その人は生涯不愉快で、始終中腰になって世の中にまごまごしていなければならないからです。"

以上引用。こうして自分の道を見つけて尊重し、他人のその姿勢も決して阻まないこと。それが「私の個人主義」だ、とするのがこの章での主旨です。

説教じみたことを書く気は全くありませんが、この部分を読んだ時、今の日本において個人主義を確立できてる人間はどれくらいいるんだろうなと素朴に疑いを抱いてしまいました。漱石の時代は西洋コンプバリバリの日本ですが、この問題提起こそまさに現代に通用するんじゃないでしょうかね。

ぼく自身、自己追求はおろか他者への寛容さもまだまだ足りないところだと自認しています。

仕事でも道楽でも家庭でも何でも、自分の生きる道を確立して、「強さゆえの優しさ」を体現できるようになりたいものです。

ベンチャー企業適性とは何か

振り返ればもう1年以上も就活していることになる。学部3年のこの時期から東京通いしていたと考えると、親と学生支援機構とバイト先に頭が下がる思いだ。

我ながら、日頃から傲慢で恩知らずな人間だと自負しているところではあるが、ぼくの生活にカネを出してくれる主体が3つもあるのは素朴にありがたい。

今日は某急成長IT企業の人事と面談してきたワケだが、結論としては思想の不一致による選考辞退という形になった。妥当な結果ではあったが、色々考える契機になったので記事にあげる。

当該面談では、マッチングを測るという名目で自己の志向性と会社の志向性を話し合った。まあどこの民間企業でもやっている面接スタイルだ。

ぼくの"現状の就活の軸"はざっくり以下の通り。

1.事業領域のポテンシャル(成長性、先進性)

2.年功序列ではなく、複数の専門性が得られること

3.構成員の価値観、性格、バックグラウンドの多様性

4.事業や組織のレア度

抽象と具体はワンセットにすべきとよく言われているのでそれぞれ説明する。

1については生活基盤を固めるために合理的だから。また、技術に対する知見を広げたいから。

(この点は、社会を改革しうる力の有無、と面接で表現している笑)

2について、現代日本の労働者として、自分の需要を確保したいから。スピード出世したいから。

3について、自分の知見を広げたいから。もっと言うならば、画一的な組織にアレルギーがあるから。

4について、どうせ組織に入るならそこでしかできないことをしたいから。

正直、"軸"として価値観を就活カスタマイズした時点で実態と逸れる独り歩きしたモノになると思っているので、誤解を招かぬようまとめると、要するに「面白そうか否か」が判断基準だ。

これは裏から言えば、自分が楽しく人生を送る一助たり得るかどうかであり、自己中心的との批判も逃れ得ぬだろう。(だからなのか、「腹を割って話そうぜ」的面談を組まれると評価が急落しがち)

以上の要件だとベンチャー企業が妥当だと思っているのだが、ここで齟齬が生まれがちなのが「理念共感性」「待遇」の観点である。

上記の通り、ぶっちゃけぼくはかなり自己中心的視点で企業を選んでいる。この姿勢自体は全く間違いだとは思っていない。その私欲が会社の利益たりうることを表現できるか否かだろう。(もっとも、ぼくはその点でかなり苦労してきたワケだが)

つまり、「意識高い」からベンチャー志向な訳では全く無い。理想に燃える様なタイプではなく、合理的選択をとろうとしているに過ぎない。

ベンチャー企業相手に就活していると、理念共感性の要求度が高い宗教的な企業があったり、貴重な経験!圧倒的成長!ビバ長時間労働!といった待遇度外視の風潮があったり、ぼくとしては中々難儀なところである。

もちろん理念、ビジョンに対する共感や賛同は組織として最低限要るだろうし、制度が整い切っていないぶん多少の残業なんかもすることになるだろう。ただ、共感はあくまで共感に留まるべきであって「信仰」に至るべきではないとぼくは思うし、毎日終電ごえ&みなし残業30時間なんて待遇は、ぼくには「企業の鉄砲玉」にしか見えない。

真に社員を「同志」と表現するなら、社員持株会くらいは作って欲しいところである。史上の武士達だって、領主や幕府の「御恩」があるからこそ命がけの「奉公」で返していたのだ。返礼のない盲信は、まさしくカルト宗教団体のソレではないか?アレな話で悪いが、非合法だが大きな見返りがある分そっちのがマシな可能性もある。

この、"企業との距離感"をどの程度求めるかの観点で、一概にベンチャー企業と言っても千差万別だったと1年かけて感じた。

今日話してきた様な企業の人事から見ると、ぼくは「大手に行くべき人間」「俗物(要約)」だったようだが、ぼくとしては上記の"合理的判断基準"に基づいて、ベンチャーで働きたいと今も思っている。

これこそ本当に価値観の違いとしか言えないだろうし、この記事を読んだ人がどう思うかも多分各々変わってくる。

そうした揺らぎを踏まえて、改めてベンチャー企業適性って何だ?とぼくは問いを投げてみたいのである。