学生読書日誌

ハッピーヘブンのふきだまり

主に読書感想文をかきます

柚木麻子『BUTTER』:しがらみに苦しむ現代人にオススメの直木賞候補作

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"「何からも追い詰められていない人間を見ると心が苛立つように、誰かにコントロールされているみたい。前にダイエット強制するようなこと言ってごめんね。なんだかね、やわらかくて豊かでのんびりしていく里佳を見ると、不安になったの。恥ずかしいけど、私の好きだった、王子様からどんどん離れていくように見えて」"
(本文より)

メモ帳コピペにつきフォントが不安定かもしれません、ご容赦下さい。


今年の直木賞芥川賞が発表されました。ちょうど発表会見の直前に神保町の三省堂にいて、特集が組まれていたので気になってしまいました。普段からチェックしているわけではないんですけどね。

惜しくも受賞は逃したようですが、候補作のうち一つが今回ご紹介する柚木麻子さんの『BUTTER』です。読んだのが少し前で記憶が曖昧なので詳細度はビミョーですが、よろしければお付き合い下さい。

ひと昔前の、木嶋早苗による結婚詐欺殺人事件から着想を得て書かれたという本作。連続殺人容疑で拘留されている梶井に対して、記者である主人公里佳が独占インタビューを試みて面会を繰り返すうちに、梶井の影響力に周囲の人間関係もろとも身を以て翻弄されていくというストーリーです。
タイトルにもなっており、里佳がグルメの梶井と交流していく中でも再三言及される良質なバターのような、読みやすくかつ濃い読後感の小説でした。
純粋なエンタメ作品としてみても、二転三転する展開にはらはらさせられます。事件を追いながら、獄中の容疑者にじわじわと心身を侵食されていく里佳の様子にページが止まらず、深夜のヒトカラボックスで一気読みしてしまいました。おかげさまで翌日からの生活リズムはぶっ壊れましたが笑

しかし、自分に印象強く残ったのは本作の現代社会風刺のメッセージ性です。
バリキャリ記者里佳をはじめとした、常識やジェンダー等の社会規範に縛られ窮屈さを感じながら生活している人々と、男を手玉にとることで自分の欲望を際限なく発散する梶井との対比から、上に引用したような「苦労していない人間は許せない」という最近の社会に漂う圧迫感、閉塞感をきれいに浮き彫りにしています。
自分は苦労を乗り越えてやってきたんだ。ヌルい人生送っている連中に我慢がならない。こんな感情に心当たりがある人も多いのではないでしょうか。虐待の連鎖や部活動での理不尽な上下関係など、似たような構造の現象は山ほどありふれている気がします。
お恥ずかしながらぼくは、どうしても他人に対してこう感じてしまう側の人間です。情けは人の為ならずと言いますが、何よりも自分が許されるためには他人を許さなければいけません。
読みながら、矛先がこっちを向いているな。この辺改めないといけないなと思わされました。
実際作中では、梶井との面会を継続している影響で太り始めてしまった里佳に対して、恋人、親友、同僚などから予想もしていなかったほどの叱責が飛んできます。その過程を経て、里佳は「人々が秘めている放漫に生きる人間への嫉妬」「他人へのあるべき姿の押し付け」という風潮を発見し、自分もそうした黒い感情やある種の偏見を他人に抱いてしまっていることを自覚します。

しかし、物語が終盤へ近づき、梶井の人物像が徐々に深掘りされ、事件の輪郭が明らかになっていくにつれて、上記のような、"他人という存在"に無意識的につきまとう様々なしがらみを振りほどいていく里佳の様子には、きっと爽快感と勇気をもらえると思います。

本作は、梶井の脅威と事件の全貌に迫っていくエンタメ的な面白さと、事件を通して里佳が自他への優しさ、寛容さを掴み取っていく成長物語のような面白さと、一粒で二度美味しい小説でした。
柚木麻子さんの著作は本作の後に数冊読んだのですが、いずれも、時にこちらの内面にまで切っ先が届いてくるキレッキレの風刺と、様々な壁に果敢に立ち向かい、各々が抱える問題を乗り越えていくたくましいキャラクター像が非常に魅力的です。
直木賞候補にもなった力作ですので、ぜひ読んでみて下さい。


就職戦線異状有り

就活全落ちしました

はい。

16年5月末ごろから、国家公務員への道を絶ち民間企業のサマーインターンに応募を初めて苦節1年1ヶ月、本選考に乗り始めたのは11月末なので厳密には7ヶ月。現在の選考中企業、ゼロです。0。零。○。ベンチャーを中心に35社ほどには本選考で接触したはずですが、流石に無残ですね……。

大学二年の時に『何者』を読み、絶対にこの主人公にはなりたくねえなと思っていた姿がここにあります。

周囲の人間関係の分析者気取り。俯瞰的視点といえば聞こえはいいが、その実どこかで周囲の人間に優越感を覚えているだけ。そして就活では、最終的に独り、勝っていると思っていた人間たちに周回遅れを食らっている。非常に不本意ながら、どこか親近感を覚えてしまう構図ですね。

フィクションの人物なので、安直な同一視からは何も生まれないとわかってはいます。実際あそこまで性格悪くはない、と思いたい笑

 

学生支援機構の無利子奨学金は留年には対応していないであろうと思われるため、マトモに学生やれるのは多分今年度までなんですが、就活留年欲求が出てくる今日この頃。まあ、敗残兵を気取っているうちにも時間とお金は日々消えていきますから、腐らず夏採用にも臨むつもりですが、体育会系と留学生のセーフティネットと称されるこの制度の中でどこまで戦えるか、正直不安が大きいです。

ただまあ心境としては、ちょっと今は一休みしたい感覚ですね……。

実際、つい先ほど唯一の選考中企業からお祈りメールが来たとき、素直な感想として「あぁ、これでひとまず東京行脚がひと段落着いた。」と思ってしまいました。もう一度ESを一から書き直し、業界知識を仕入れ、志望動機をアジャストし、夜行バスで苦痛と睡眠不足に耐えながら上京して面接を受ける。このプロセスに思いを馳せると少し、いや正直に言うと並々ならぬ億劫さを覚えます。細く長くではありますが、この一年就活に専念し続けてきた自負がありながら結果が伴わないこの状況、ぼくの継戦士気を萎えさせるにはわりと十分でした。

気持ちが前を向けるまで、小説読んだりブログ書いたり友人と会ったり、しばらくフラフラしてようと思います。

 

一体何がダメだったのか?

とはいえ、敗北という結果を受け止めたからには、次につなげるための反省をしておきたいところ。そう思いこのテーマを中見出しに置いたわけですが、正直わかんないんですよね笑 もちろん、キャリア観の曖昧さ、好感を与えるためのコミュ力等々細々した要素は思い浮かぶのですが、あるところで否定された側面があるところでは有効だったなんて経験は腐るほどあり、現状を決定づけるほどの強い要因ではなかったと思うんです。

しかし、一年間やってきてクリティカルな敗因がわからない。この事実そのものが自分の惨めさを際立たせますので、なんとか一つひねり出したところ、志望先と自分の(面接の場で無意識に顕在化していると思われる)適性があっていなかったのかもしれないという考えに思い至りました。つまり、ベンチャーじゃなくて大手受けてればってことですね。

これはどうなんでしょうか。ぼくとしては以下の先日のエントリで書いたような考えのもと合理的だと感じてベンチャーを受けており、その考えのプロセスを面接の場でも伝えていたつもりでした。しかし、結果は雄弁です。もしかしたら、こうしたある種保守的な合理主義そのものが合わないと判断されていたのかもしれません。だったらベンチャーに合う人間ってマジでどんなやつだよと思ってしまうのですが、結局「仕事を通じてやりたいことがある人」という月並みな解答になるのでしょうか。

 

kyuteisyukatsu.hatenablog.com

 

とりあえず、心身がアクティブになったら、大手企業の夏採用を中心に再び就活戦線へ躍り出ようと思います。

 

 

 

最高最悪の映画『22年目の告白 -私が殺人犯です-』を観ました

おはようございます。今日も面接前の暇つぶしに、御苑前のファミレスからお届けしております。

内定は未だ出ません。誰かwebライターとかのオファー下さい。


笑えない冗談はさておき、久々にパワーがある映画を見たので感想書きたいと思います。核心部分のネタバレ無しで、見た当時のガチ感情を綴っていくつもりなので、普段よりは文章の精度とか落ちると思いますが、その分何も考えずに流し読みできると思います。


さて、今回は藤原竜也伊藤英明のW主演『22年目の告白 -私が殺人犯です-』を見ました。ジャンル分けするなら社会派サスペンスってとこでしょうか。


過去に5人もの連続殺人を遂げていながら、刑訴法の改正時期の関係でまんまと時効を手にしてしまった男が、事件についての「告白本」を出版し、世間を大きく騒がせるところから話が始まります。

"殺人犯"の行動は記者会見に始まり、告白本のサイン会、youtubeでのインタビュー、被害者遺族訪問とやりたい放題。告白本も爆売れベストセラー入り、その甘いマスク(藤原竜也)から女性ファンもみるみる急増。遺族たちはもちろんブチギレ。

そして、過去に事件を担当しながらも犯人を検挙出来なかった刑事は、沸き立つ世間の中、もはや法では裁けなくなったこの犯人に対してどう向き合うのか?


あらすじはざっくりこんな感じです。この時点で悪趣味ですね笑  

司法の守備範囲を超えた社会悪、その話題性にしか目が向かない愚かな大衆、そして、死刑に値する罪を犯していながら絶対安全を自覚し、傍若無人に振る舞う犯人。徹夜明けにラーメン二郎を提供されるようなヘビーさです。観客が「真面目」であればあるほど、この構造は醜悪に映るでしょう。ぼくはこういうの好きです笑

しかし、鉄板をぶん殴ると、拳の痛みと引き換えにいい音が響くものです。社会の穴を的確にエグって観客の正義感に鈍痛を食らわすことで、この映画の問題意識はダイレクトに届いてきます。


言ってしまえばありふれた「裁けない悪」というテーマですが、恋愛モノで「認められない恋」が必ず盛り上がるのと同じで、倫理と感情の葛藤は決して陳腐化しません。パワーは健在です。


また、テーマのパワーを最大限引き出すための演出もきめ細かく工夫されてます。

刑事や遺族たちが当時を思い出す際のフラッシュバック、記者会見の際のおぞましくも鮮烈な映像投影などなど、焦燥と不快を掻き立てる程よい音響と併せて見ていて飽きません。

もちろん演技も申し分ない。こういう作品は被害者遺族の演技にフラストレーションを晴らす機能が求められがちですが、役者は皆、殺意満タン嘆き爆発といった正統派演技を堂々と見せつけてくれます。藤原竜也のダークヒーローっぷりも良いです。

巷では、「藤原竜也主演作品はハズレ無し説」が囁かれているようですが、なんだか納得してしまいました。


さて、ここまで長々とあらすじでも推測できる範囲のストーリーにしか言及していないのですが、実はコレ、ただの問題提起作品ではありません。純粋なエンタメとしても、非常に楽しませてくれます。

その要素を詳細に語るとネタバレなので控えますが、とにかく後半の展開が怒濤。物語は途中から全く異なる色を見せます。

そこからはかなりケレン味が強くなるのですが、多少のアラは吹き飛ばして観客を引っ張っていきます。そういう意味でもパワフルな映画です。

もちろん、展開が加速した後にも悪趣味要素は健在笑  個人的にはラスト2シーンで制作者たちの悪意にどっぷり浸ることが出来ました。シーン自体の意外性は薄いのですが、しっかり王道を押さえてます。

ネタバレを控えつつ後半の展開のキーワードを考えるなら、「因果は巡る」って感じになるでしょうか。ぜひとも劇場でその真価を確かめていただきたいです。



そんなわけで、この辺で終わりにしたいと思います。

直近の映画の中では激推しなので、ぜひ見ていただきたい。『怒り』とか好きな人にはハマると思います。

それでは。


夏目漱石『私の個人主義』を読みました

就活の持ち駒が欠乏している状況ですが、構わず読書に浸っております。しゃーないっすね。夜行バス疲れたし。結局人生いかに(公共の福祉の範囲で)楽しむかですよ。他人との比較を辞めて、自分が充実できるコトを見出せてれば、多少内定が遅れたって大した問題ではないでしょう。そんないい意味での自己本位さ、個人主義な生き方を目指していければいいと思います。

というわけで、今回は夏目漱石の講演集『私の個人主義』について短めに書きたいと思います。自然な導入がキマりました。やったぜ。

この本は、漱石晩年の演壇での講演5本を活字に起こしてまとめたものです。『道楽と職業』『現代日本の開化』『中味と形式』『文芸と道徳』『私の個人主義』の5講演からなります。現代〜は国語の教科書にも載ってた覚えがありますね。

さて、ここでは表題作からちょいちょい引用しつつ感想考察みたいなスタイルでいこうと思うのですが、その前に概括をひとつ。

全体として感想を書くなら、「古典の古典たりえる凄さがわかった」って感じです。より砕いて言うなら、ここで書かれてる漱石の思想は現代にも普遍的に通じるんです。時代の淘汰に耐えうる著作はやっぱりそれなりの強靭さがあるんでしょうね。それを実感したのが本作でした。

まあ、よりうがった見方をすれば、人間や社会の懸念点、問題点なんぞは100年経っても変わんねえってことでしょうが笑

そう考えると西洋哲学ってスゴイですよね。なんせ、本質的には全然変わらない人間っていう材料を元に、あんだけコツコツと学問体系を積み重ねてきたワケですから。そんだけの段階的発展を可能にした触媒が、神とか真理とかの西洋宗教だってのを考えると、神学にも興味を惹かれますね。(まあ哲学の場合、時代に"最適化"した"善い"生き方を探るという姿勢が発展を後押ししたのはあるでしょうが)

閑話休題です。内容に入りましょう。以下引用。

"私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。彼ら何者ぞやと気概が出ました。今まで茫然と自失していた私に、ここに立って、この道からこう行かなければならないと指図をしてくれたものは実にこの自己本位の四字なのであります。"

以上引用。学習院大学の学生に講演した表題作の一節です。漱石は東大を出て何度か教職に就いたのち、イギリス留学中に学者としてのアイデンティティに悩みます。時代背景もあってか西洋の思想がとりあえず全肯定されるような風潮にあって、借り物の、西洋風の付け焼き刃の知識だけで持て囃されることに物足りなさを感じていたようです。そこで彼は、結局この不安を解消するためには、一から自分にとっての文学の概念を確立するしかないと気づいたと言います。ちなみに上記に出てくる「彼ら」とは西洋人を指します。

また漱石は、これは学問や芸術に留まるところではなく、生き方全体の問題なのだと言います。以下引用。

"もし貴方がたのうちで既に自力で切り開いた道を持っている方は例外であり、また他の後に従って、それで満足して、在来の古い道を進んで行く人も悪いとは決して申しませんが、(自己に安心と自信がしっかり附随しているならば、)しかしもしそうでないとしたならば、どうしても、一つ自分のツルハシで掘り当てるところまで進んで行かなくっては行けないでしょう。

行けないというのは、もし掘り当てることが出来なかったなら、その人は生涯不愉快で、始終中腰になって世の中にまごまごしていなければならないからです。"

以上引用。こうして自分の道を見つけて尊重し、他人のその姿勢も決して阻まないこと。それが「私の個人主義」だ、とするのがこの章での主旨です。

説教じみたことを書く気は全くありませんが、この部分を読んだ時、今の日本において個人主義を確立できてる人間はどれくらいいるんだろうなと素朴に疑いを抱いてしまいました。漱石の時代は西洋コンプバリバリの日本ですが、この問題提起こそまさに現代に通用するんじゃないでしょうかね。

ぼく自身、自己追求はおろか他者への寛容さもまだまだ足りないところだと自認しています。

仕事でも道楽でも家庭でも何でも、自分の生きる道を確立して、「強さゆえの優しさ」を体現できるようになりたいものです。

ベンチャー企業適性とは何か

振り返ればもう1年以上も就活していることになる。学部3年のこの時期から東京通いしていたと考えると、親と学生支援機構とバイト先に頭が下がる思いだ。

我ながら、日頃から傲慢で恩知らずな人間だと自負しているところではあるが、ぼくの生活にカネを出してくれる主体が3つもあるのは素朴にありがたい。

今日は某急成長IT企業の人事と面談してきたワケだが、結論としては思想の不一致による選考辞退という形になった。妥当な結果ではあったが、色々考える契機になったので記事にあげる。

当該面談では、マッチングを測るという名目で自己の志向性と会社の志向性を話し合った。まあどこの民間企業でもやっている面接スタイルだ。

ぼくの"現状の就活の軸"はざっくり以下の通り。

1.事業領域のポテンシャル(成長性、先進性)

2.年功序列ではなく、複数の専門性が得られること

3.構成員の価値観、性格、バックグラウンドの多様性

4.事業や組織のレア度

抽象と具体はワンセットにすべきとよく言われているのでそれぞれ説明する。

1については生活基盤を固めるために合理的だから。また、技術に対する知見を広げたいから。

(この点は、社会を改革しうる力の有無、と面接で表現している笑)

2について、現代日本の労働者として、自分の需要を確保したいから。スピード出世したいから。

3について、自分の知見を広げたいから。もっと言うならば、画一的な組織にアレルギーがあるから。

4について、どうせ組織に入るならそこでしかできないことをしたいから。

正直、"軸"として価値観を就活カスタマイズした時点で実態と逸れる独り歩きしたモノになると思っているので、誤解を招かぬようまとめると、要するに「面白そうか否か」が判断基準だ。

これは裏から言えば、自分が楽しく人生を送る一助たり得るかどうかであり、自己中心的との批判も逃れ得ぬだろう。(だからなのか、「腹を割って話そうぜ」的面談を組まれると評価が急落しがち)

以上の要件だとベンチャー企業が妥当だと思っているのだが、ここで齟齬が生まれがちなのが「理念共感性」「待遇」の観点である。

上記の通り、ぶっちゃけぼくはかなり自己中心的視点で企業を選んでいる。この姿勢自体は全く間違いだとは思っていない。その私欲が会社の利益たりうることを表現できるか否かだろう。(もっとも、ぼくはその点でかなり苦労してきたワケだが)

つまり、「意識高い」からベンチャー志向な訳では全く無い。理想に燃える様なタイプではなく、合理的選択をとろうとしているに過ぎない。

ベンチャー企業相手に就活していると、理念共感性の要求度が高い宗教的な企業があったり、貴重な経験!圧倒的成長!ビバ長時間労働!といった待遇度外視の風潮があったり、ぼくとしては中々難儀なところである。

もちろん理念、ビジョンに対する共感や賛同は組織として最低限要るだろうし、制度が整い切っていないぶん多少の残業なんかもすることになるだろう。ただ、共感はあくまで共感に留まるべきであって「信仰」に至るべきではないとぼくは思うし、毎日終電ごえ&みなし残業30時間なんて待遇は、ぼくには「企業の鉄砲玉」にしか見えない。

真に社員を「同志」と表現するなら、社員持株会くらいは作って欲しいところである。史上の武士達だって、領主や幕府の「御恩」があるからこそ命がけの「奉公」で返していたのだ。返礼のない盲信は、まさしくカルト宗教団体のソレではないか?アレな話で悪いが、非合法だが大きな見返りがある分そっちのがマシな可能性もある。

この、"企業との距離感"をどの程度求めるかの観点で、一概にベンチャー企業と言っても千差万別だったと1年かけて感じた。

今日話してきた様な企業の人事から見ると、ぼくは「大手に行くべき人間」「俗物(要約)」だったようだが、ぼくとしては上記の"合理的判断基準"に基づいて、ベンチャーで働きたいと今も思っている。

これこそ本当に価値観の違いとしか言えないだろうし、この記事を読んだ人がどう思うかも多分各々変わってくる。

そうした揺らぎを踏まえて、改めてベンチャー企業適性って何だ?とぼくは問いを投げてみたいのである。

恩田陸『蜜蜂と遠雷』を読みました

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"彼女はいつもあそこを見つめていた。

何が見えるのだろう。

今、何を見ているのだろう。

明石は不意に熱く苦いものが込み上げてくるのを感じた。

俺もあそこに行きたかった。彼女が見ているものを見たかった。

いや、ほんの一瞬かもしれないが、見たと思うーー

続けたい。弾き続けたい。

明石は舞台の上の亜夜に向かって叫んでいた。

俺は音楽家でいたい。音楽家でありたい。"

おはようございます。

今日も今日とて東京砂漠の片隅からお送りします。

今回は、直木賞&本屋大賞ダブル受賞を成し遂げた大作、恩田陸の『蜜蜂と遠雷』の感想を書こうと思います。

私事ですが、恩田陸作品は『夜のピクニック』くらいしか読んだことがありませんでした。あのなんとも言えぬ淡さを味わうにはスレ過ぎていたのか、当時はあまり刺さらなかったので本作を楽しめるか危惧していたのですが、見事杞憂に終わりました。

本作は、「ここを戦い抜いたピアニストは大成する」というジンクスが囁かれる、日本のとあるピアノコンクールが舞台です。

スポットの当たるピアニストは4人。音楽界の常識とかけ離れた、天衣無縫の少年風間塵。彼とは対照的な正統派・王道の天才マサル。かつて母の死と共に、一度ピアノから退いてしまった亜夜。そして、「20過ぎたただの人」を自認し、記念受験的にコンクールに挑む明石。

コンクールを戦う中で、対話や演奏を通じて彼らが各々の成長を遂げていく様が、この物語の主軸です。

読んでてまずありありと感じたのが、ピアノが持つ特有の荘厳な美しい雰囲気です。誤解を招かぬよう言っておくとぼくの音楽的素質はからっきしです。

ただ、陳腐な表現にはなりますがまさしく映像的な文章なんですよ。コンサートホールの静寂や熱狂、ピアニストたちが抱える畏怖や高揚、クラシック楽曲が奏でる音楽家たちの心象風景。こういった諸々が視覚的なイメージを伴って顕在化していました。

「文章をどのように読むか?」というテーマにも関わってくるでしょうが、ぼくは基本的にいわゆる「脳内再生」が苦手な人間です。文字と映像が中々直結しません。

ニュアンスを汲み取ってもらえるか自信がありませんが、文章が想起する映像を観賞するのではなく、文字の連なりが持つ意味を頭でそのまま取り込んでいる感じです。

なので、コメディとかキャラ崩壊気味の二次創作なんかへの順応性は高いのですが、ゴリゴリのクラシックな純文学みたいなものは少し苦手です。これはもう完全に余談ですね。

話を戻すと、本作にはそういう貧困な想像力(笑)の人間にもコンサートホールをイメージさせるパワーがあるなと感じました。

それを実現するだけの要因のひとつとなっているのが、作者の多角的な視点です。

ともすればひたすらお耽美な雰囲気に終始してしまいそうなピアノ演奏の光景を、必死に自分の世界を描こうとするピアニストの視点、彼らの心象風景に陶酔してしまう友人・審査員たちの視点、音を分析しながらも圧倒されてしまう一観客の視点で書き分け、客観性を保っています。

そしてそれによって、どんな読者でもピアニストの演奏を楽しめるような分かりやすさを担保しています。

また、こうした異なるスタンスでの書き分けによって、天才たちの暴力的な無垢性によって宿る神秘性&それ一本で食べていくことが困難な音楽界の現実性という、ピアノのまとう相反する側面が物語を通して上手くまとまっています。

さて、小説全体のテクニカルなところを褒めた上であえて言及しますが、こうした厳然たる才能の世界を描いた物語を読むと、読者が肩入れする人物は自ずと分かれてくるものかと思います。(あえて共感ではなく肩入れと言います)

恋愛ドラマを見て誰を応援したくなるか問題と言えばより分かりやすいでしょうか(笑)

ちなみにぼくは、三角関係においてひとり報われない方のキャラが大好きです。読者の方にはおそらくバレバレでしょうが(笑)

この小説で言うならば、4人目のピアニスト明石です。天才たちに対する消化しきれない嫉妬心や怒り、純粋な憧れ、倒錯した優越感を抱え、メタ的に言えば「絶対に作中のコンクールでは優勝できない」と読者にバレてしまっている人物。

彼がどのように自分のピアノと向き合っていくのか?

優勝はありえないと作者に告げられた上で、どのような救いを得るのか?

そんなところも本作の見どころではないでしょうか。

またもうひとつ印象に残った場面として、三次選考での亜夜の演奏シーンがあります。

彼女もまた自分のピアノへの姿勢を悩み続け、風間塵の演奏に背中を押され、ついに自分のピアノを確立して舞台へ向かいます。

この亜夜の演奏シーンで、聴衆は皆自分の人生の一部始終を想起するんですよね。

ぼくは個人的に、人間は根っこで絶対に独りであって、苦しみや悩みに始まる他人の感情、人生を完全に理解することなんて出来ないと考えています。

「クソガキが無頼主義気取りやがって」「中二病かよ」などと言われるかもしれませんが、自分の人生を前進・変化させるのは自分でしかありえない。この考えは変わりません。

ただ、上記のシーンを読んだ時、人間が、そんな互いの不理解を超越して交わることが出来る媒体が音楽であり芸術であって、だから芸術家が"表現者"なんて呼ばれるのかなーと、ガラにもなく青臭いことを考えさせられました。

と、こんなところで今回は終わりたいと思います。

オススメですので是非ご一読下さい。

月村了衛『機龍警察 完全版』を読みました

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いきなりですが、皆さんには「自分はこう生きていくのだ」という強烈な行動原理、軸、生きる意味だというようなモノはありますか?

それは夢でも、職業意識でも、宗教でも、人間関係でも、正義感でもプライドでも全く構いません。病気や障害であったとしても、それが生きようとする原動力に結びついているのであればそれはそれで良いでしょう。

自分で自分の生き方を定めるという行いは、方向性と力強さを伴っている限り全て尊いものだと思います。たとえそれがどんなに後ろ向きなモノであったとしても。自死や虚無ではなく生に結びつくのであれば。


さて、のっけから何を青臭いことをほざいてやがるとの罵倒はごもっともです。ただの大学生が何言ってんだコイツと、ぼくの自意識も尖った針でつついてきます。

ただ、こんなクサいことを書き起こしてみたくなる程度には『機龍警察』という作品シリーズのキャラクター像にはインパクトがありました。

今のところ『火宅』以外の単行本まで読んだのですが、今回はシリーズ第1作について感想を書きたいと思います。


本作は、SF警察群像劇『機龍警察』シリーズ第1作となります。

舞台は犯罪のグローバル化が急拡大した"至近未来"世界。市街地テロの増加、局所的紛争の激化により、軍事・警察の観点から大量破壊兵器に代わる兵器開発の要請が高まり、世界では「機甲兵装」という装備が主流となりました。(小規模で現代的武装のモビルスーツのようなイメージ)

日本の警視庁は、新型機甲兵装「龍騎兵(ドラグーン)」を切り札とする特捜部を新設、龍騎兵の乗り手として3人の傭兵と契約し、各地で起こる重大事件と立ち向かうこととなるのでした。


この作品の魅力をあげるならば、

・パワフルで魅力的なキャラクター

・非常に緻密でリアリティ溢れる世界観

・テクニカルな脚本構成

以上の3点だと思います。


順に追っていきます。


キャラクターについてですが、まず第一に皆強固な行動原理を抱えています。その力強さたるや、読み終えた後記事冒頭のようなことを思わず考えさせられてしまうほど。

創作人物なんだから当たり前だろと喝破されてしまいそうですが、皆「キャラが立ってる」と一言で片付けてしまうには惜しい造形なのです。

特にドラグーンのパイロット3人の傭兵刑事たちは、それぞれ職業傭兵のプライド、警官の矜持、元テロリストとしての自罰を胸中に抱いています。各々の思いの形成のきっかけや克服の過程、それらが任務とぶつかる際の葛藤など、いずれも一筋縄ではいきません。

読むほどに彼らの過去が特捜部での任務を通して掘り下げられていき、内面がどう変わるのか、あるいは変わらないのか、文字を追う目を強く惹きつけます。


次に世界観、設定の部分ですが、"至近未来"と題しているだけあって、武装が機甲兵装でなければ、それはそのまま世界のどこかで起きているのではないかと思わせる現実味があります。さながらフィクションとリアルの"相似"です。

巻末の参考文献を見ても、作者が舞台を構築するためにどれだけの考証を重ねているのかが伺えるでしょう。

そして、国際犯罪の潮流に立ち向かう組織として日本警察を選ぶことで、作中描かれる暴力、犯罪の脅威は、もはや対岸の火事のままではありえないのだとするメッセージ性も感じます。

ただこの点では、作中再三警察の閉塞感について言及されるのですが、少々脚色が過ぎるのでは?と思ってしまうことがありました。もちろんぼくに実態は分からないし、物語の面白さを損なうほどのものでは無いのですが。


最後にストーリーについて。

警察小説であり、基本的にはずっと犯人グループと特捜部の対立構造で話が進むのですが、要所要所の組み立て方に妙を感じます。

主要キャラクターの抱えた因縁が、テロ事件を追っていくうちに運命の悪戯のように立ち塞がってくるのです。

本巻においては、ドラグーンパイロットの1人、姿俊之の過去に焦点が当たります。次巻『自爆条項』ではライザ・ラードナー、次々巻『暗黒市場』ではユーリ・オズノフ(いずれもドラグーンパイロット)において同じ構成が見られます。

過去と未来の"相似"とでも言えるでしょうか、この相似構造の魅せ方がまた上手。

この構成が非常にアツく、かつわざとらしくないんですよね。シリーズを通じて似た手法であるのに、全く違う人物像を見事に書き上げており飽きさせません。

またストーリー構造に関していえば、伏線の張り方とその回収が見事です。朝井リョウ伊坂幸太郎を想起する、ぼくの大好きなシナリオのパターンです(笑)

余談ですが、作者は元々アニメ等の脚本を手掛けていたそうで、その経歴を見て『機龍警察』での筆力に強く頷けました。



以上3点がぼくの推しポイントですかね。

指のおもむくまま入力してみたところ、第1作について書くといいながらシリーズ通しての感想になり、第1作特有のところには言及がヌルくなった気がします。そこはネタバレ回避ということにしてご容赦下さい(笑)



確か、新刊『狼眼殺手』が7月だか9月だかに単行本化されるそうです。ぜひこの機会にシリーズに手を出してみてはいかがでしょうか。

それでは。