臆病で尊大な読書日誌

読書感想文 時々アマチュア哲学

恩田陸『蜜蜂と遠雷』を読みました

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"彼女はいつもあそこを見つめていた。

何が見えるのだろう。

今、何を見ているのだろう。

明石は不意に熱く苦いものが込み上げてくるのを感じた。

俺もあそこに行きたかった。彼女が見ているものを見たかった。

いや、ほんの一瞬かもしれないが、見たと思うーー

続けたい。弾き続けたい。

明石は舞台の上の亜夜に向かって叫んでいた。

俺は音楽家でいたい。音楽家でありたい。"

おはようございます。

今日も今日とて東京砂漠の片隅からお送りします。

今回は、直木賞&本屋大賞ダブル受賞を成し遂げた大作、恩田陸の『蜜蜂と遠雷』の感想を書こうと思います。

私事ですが、恩田陸作品は『夜のピクニック』くらいしか読んだことがありませんでした。あのなんとも言えぬ淡さを味わうにはスレ過ぎていたのか、当時はあまり刺さらなかったので本作を楽しめるか危惧していたのですが、見事杞憂に終わりました。

本作は、「ここを戦い抜いたピアニストは大成する」というジンクスが囁かれる、日本のとあるピアノコンクールが舞台です。

スポットの当たるピアニストは4人。音楽界の常識とかけ離れた、天衣無縫の少年風間塵。彼とは対照的な正統派・王道の天才マサル。かつて母の死と共に、一度ピアノから退いてしまった亜夜。そして、「20過ぎたただの人」を自認し、記念受験的にコンクールに挑む明石。

コンクールを戦う中で、対話や演奏を通じて彼らが各々の成長を遂げていく様が、この物語の主軸です。

読んでてまずありありと感じたのが、ピアノが持つ特有の荘厳な美しい雰囲気です。誤解を招かぬよう言っておくとぼくの音楽的素質はからっきしです。

ただ、陳腐な表現にはなりますがまさしく映像的な文章なんですよ。コンサートホールの静寂や熱狂、ピアニストたちが抱える畏怖や高揚、クラシック楽曲が奏でる音楽家たちの心象風景。こういった諸々が視覚的なイメージを伴って顕在化していました。

「文章をどのように読むか?」というテーマにも関わってくるでしょうが、ぼくは基本的にいわゆる「脳内再生」が苦手な人間です。文字と映像が中々直結しません。

ニュアンスを汲み取ってもらえるか自信がありませんが、文章が想起する映像を観賞するのではなく、文字の連なりが持つ意味を頭でそのまま取り込んでいる感じです。

なので、コメディとかキャラ崩壊気味の二次創作なんかへの順応性は高いのですが、ゴリゴリのクラシックな純文学みたいなものは少し苦手です。これはもう完全に余談ですね。

話を戻すと、本作にはそういう貧困な想像力(笑)の人間にもコンサートホールをイメージさせるパワーがあるなと感じました。

それを実現するだけの要因のひとつとなっているのが、作者の多角的な視点です。

ともすればひたすらお耽美な雰囲気に終始してしまいそうなピアノ演奏の光景を、必死に自分の世界を描こうとするピアニストの視点、彼らの心象風景に陶酔してしまう友人・審査員たちの視点、音を分析しながらも圧倒されてしまう一観客の視点で書き分け、客観性を保っています。

そしてそれによって、どんな読者でもピアニストの演奏を楽しめるような分かりやすさを担保しています。

また、こうした異なるスタンスでの書き分けによって、天才たちの暴力的な無垢性によって宿る神秘性&それ一本で食べていくことが困難な音楽界の現実性という、ピアノのまとう相反する側面が物語を通して上手くまとまっています。

さて、小説全体のテクニカルなところを褒めた上であえて言及しますが、こうした厳然たる才能の世界を描いた物語を読むと、読者が肩入れする人物は自ずと分かれてくるものかと思います。(あえて共感ではなく肩入れと言います)

恋愛ドラマを見て誰を応援したくなるか問題と言えばより分かりやすいでしょうか(笑)

ちなみにぼくは、三角関係においてひとり報われない方のキャラが大好きです。読者の方にはおそらくバレバレでしょうが(笑)

この小説で言うならば、4人目のピアニスト明石です。天才たちに対する消化しきれない嫉妬心や怒り、純粋な憧れ、倒錯した優越感を抱え、メタ的に言えば「絶対に作中のコンクールでは優勝できない」と読者にバレてしまっている人物。

彼がどのように自分のピアノと向き合っていくのか?

優勝はありえないと作者に告げられた上で、どのような救いを得るのか?

そんなところも本作の見どころではないでしょうか。

またもうひとつ印象に残った場面として、三次選考での亜夜の演奏シーンがあります。

彼女もまた自分のピアノへの姿勢を悩み続け、風間塵の演奏に背中を押され、ついに自分のピアノを確立して舞台へ向かいます。

この亜夜の演奏シーンで、聴衆は皆自分の人生の一部始終を想起するんですよね。

ぼくは個人的に、人間は根っこで絶対に独りであって、苦しみや悩みに始まる他人の感情、人生を完全に理解することなんて出来ないと考えています。

「クソガキが無頼主義気取りやがって」「中二病かよ」などと言われるかもしれませんが、自分の人生を前進・変化させるのは自分でしかありえない。この考えは変わりません。

ただ、上記のシーンを読んだ時、人間が、そんな互いの不理解を超越して交わることが出来る媒体が音楽であり芸術であって、だから芸術家が"表現者"なんて呼ばれるのかなーと、ガラにもなく青臭いことを考えさせられました。

と、こんなところで今回は終わりたいと思います。

オススメですので是非ご一読下さい。

月村了衛『機龍警察 完全版』を読みました

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いきなりですが、皆さんには「自分はこう生きていくのだ」という強烈な行動原理、軸、生きる意味だというようなモノはありますか?

それは夢でも、職業意識でも、宗教でも、人間関係でも、正義感でもプライドでも全く構いません。病気や障害であったとしても、それが生きようとする原動力に結びついているのであればそれはそれで良いでしょう。

自分で自分の生き方を定めるという行いは、方向性と力強さを伴っている限り全て尊いものだと思います。たとえそれがどんなに後ろ向きなモノであったとしても。自死や虚無ではなく生に結びつくのであれば。


さて、のっけから何を青臭いことをほざいてやがるとの罵倒はごもっともです。ただの大学生が何言ってんだコイツと、ぼくの自意識も尖った針でつついてきます。

ただ、こんなクサいことを書き起こしてみたくなる程度には『機龍警察』という作品シリーズのキャラクター像にはインパクトがありました。

今のところ『火宅』以外の単行本まで読んだのですが、今回はシリーズ第1作について感想を書きたいと思います。


本作は、SF警察群像劇『機龍警察』シリーズ第1作となります。

舞台は犯罪のグローバル化が急拡大した"至近未来"世界。市街地テロの増加、局所的紛争の激化により、軍事・警察の観点から大量破壊兵器に代わる兵器開発の要請が高まり、世界では「機甲兵装」という装備が主流となりました。(小規模で現代的武装のモビルスーツのようなイメージ)

日本の警視庁は、新型機甲兵装「龍騎兵(ドラグーン)」を切り札とする特捜部を新設、龍騎兵の乗り手として3人の傭兵と契約し、各地で起こる重大事件と立ち向かうこととなるのでした。


この作品の魅力をあげるならば、

・パワフルで魅力的なキャラクター

・非常に緻密でリアリティ溢れる世界観

・テクニカルな脚本構成

以上の3点だと思います。


順に追っていきます。


キャラクターについてですが、まず第一に皆強固な行動原理を抱えています。その力強さたるや、読み終えた後記事冒頭のようなことを思わず考えさせられてしまうほど。

創作人物なんだから当たり前だろと喝破されてしまいそうですが、皆「キャラが立ってる」と一言で片付けてしまうには惜しい造形なのです。

特にドラグーンのパイロット3人の傭兵刑事たちは、それぞれ職業傭兵のプライド、警官の矜持、元テロリストとしての自罰を胸中に抱いています。各々の思いの形成のきっかけや克服の過程、それらが任務とぶつかる際の葛藤など、いずれも一筋縄ではいきません。

読むほどに彼らの過去が特捜部での任務を通して掘り下げられていき、内面がどう変わるのか、あるいは変わらないのか、文字を追う目を強く惹きつけます。


次に世界観、設定の部分ですが、"至近未来"と題しているだけあって、武装が機甲兵装でなければ、それはそのまま世界のどこかで起きているのではないかと思わせる現実味があります。さながらフィクションとリアルの"相似"です。

巻末の参考文献を見ても、作者が舞台を構築するためにどれだけの考証を重ねているのかが伺えるでしょう。

そして、国際犯罪の潮流に立ち向かう組織として日本警察を選ぶことで、作中描かれる暴力、犯罪の脅威は、もはや対岸の火事のままではありえないのだとするメッセージ性も感じます。

ただこの点では、作中再三警察の閉塞感について言及されるのですが、少々脚色が過ぎるのでは?と思ってしまうことがありました。もちろんぼくに実態は分からないし、物語の面白さを損なうほどのものでは無いのですが。


最後にストーリーについて。

警察小説であり、基本的にはずっと犯人グループと特捜部の対立構造で話が進むのですが、要所要所の組み立て方に妙を感じます。

主要キャラクターの抱えた因縁が、テロ事件を追っていくうちに運命の悪戯のように立ち塞がってくるのです。

本巻においては、ドラグーンパイロットの1人、姿俊之の過去に焦点が当たります。次巻『自爆条項』ではライザ・ラードナー、次々巻『暗黒市場』ではユーリ・オズノフ(いずれもドラグーンパイロット)において同じ構成が見られます。

過去と未来の"相似"とでも言えるでしょうか、この相似構造の魅せ方がまた上手。

この構成が非常にアツく、かつわざとらしくないんですよね。シリーズを通じて似た手法であるのに、全く違う人物像を見事に書き上げており飽きさせません。

またストーリー構造に関していえば、伏線の張り方とその回収が見事です。朝井リョウ伊坂幸太郎を想起する、ぼくの大好きなシナリオのパターンです(笑)

余談ですが、作者は元々アニメ等の脚本を手掛けていたそうで、その経歴を見て『機龍警察』での筆力に強く頷けました。



以上3点がぼくの推しポイントですかね。

指のおもむくまま入力してみたところ、第1作について書くといいながらシリーズ通しての感想になり、第1作特有のところには言及がヌルくなった気がします。そこはネタバレ回避ということにしてご容赦下さい(笑)



確か、新刊『狼眼殺手』が7月だか9月だかに単行本化されるそうです。ぜひこの機会にシリーズに手を出してみてはいかがでしょうか。

それでは。




自分探しは"病気"なのか?

久しぶりの更新である。
なんだかんだ、年度明け以降ざっくり2週間以内くらいのペースでは更新を継続していたという自分に驚き。緩く長く続けていきたい。

相も変わらず就活中で都内にいるわけだが、早朝の時間潰しにファミレスで読んだブログ記事が面白かった。
http://globalbiz.hatenablog.com/entry/2016/01/09/000858
筆者の方は日系メーカー→外資系企業のキャリアを踏まれているようで、貼らせてもらった記事以外にも、組織論やキャリア観の領域で含蓄深い事を書かれている。(自分がそれらを十全に活かしうるキャリアを積めるかどうかは置いておく)

今回は、当該ブログの上記記事を読んで考えた事をつらつらまとめようと思う。結果としては反論の形になるが、大いにぼくの主観と経験則に基づくものである点をご容赦いただきたい。もし読んでくれた人がいたら考えを聞かせてくれると嬉しい。


以下引用。

「自分探し」というのは、いまを生きる人の宿痾のようなもので、みな多かれ少なかれ人生において「自分らしさ」というやつを追求しようとしてしまう。でも残念ながらこの追求はどこにも行き着かない。なぜなら、「自己」というのは、それ自体で存在するものでなく、他者との関係性によって規定され、浮かび上がってくるものだから。

アキコのセリフが泣けるのは、彼女がこのことに改めて気づき、素直な気持ちを吐露しているから。漫画が描きたい、なんとか売れたい、こう願って先生のことを忘れて東京で仕事にのめり込む作者。でも、彼女は先生の死に触れて、自分の存在が先生との関係を通じて構築されていることに気づく。師匠である先生が最後まで言い続けた「描け」という激を通じてこそ、漫画家としての彼女の存在が立ち上がるのだということを。

「実存は本質に先立つ」のではなくて、我々の主体は関係性(システム)によって規定されているのだと構造主義は主張し、サルトル実存主義)の息の根を止めた。けれど、我々の社会では、いまだに自分探しによって「ほんとうの自分」にいつか辿り着くのだ、という神話が流通している。その先は袋小路でしかないのに。

以上引用。


筆者は読まれた漫画についてこうした考察を述べている。

だがぼくの考えとしては、自己が周囲の関係性に規定されることを根拠にして自分探しを"気の病"として斬って捨てることはできないと思う。

ここで言う自分探しとはつまり、個人で完結しうるアイデンティティの追求であり、なぜそれを行うかといえば、結局、自分の人生に価値を見出せていない状態をどうにかしたいと感じるからだろう。

言い換えれば、昨今話題になる自分探しの本質とは、各々の個人がそれまでの他者関係や経験を省みたその上で、「これからどのように生きていけば自分は満足できるか?そのための指針はどこにあるか?」という未来志向の改革意識なのではないだろうか。

おそらく筆者がいう自分探しは、「これまでの自分がどんな存在であったか」という意味での過去に目を向けた営みであって、その視点においては確かに独立確固とした自己像などは存在しないのかもしれない。人間は社会的動物であり、他者との関係無しに生きてきた人間などあり得ない。その観点無しに過去の"自分"を探すことは確かに不毛だろう。


だが、「これからの自分がどう生きていくべきか」というスタンスを取る視点においては、その人なりのロールモデルとしての"自分像"を定める営みはあって然るべきだ。

なぜなら、他者が「これからの自分の人生にどのように関係してくるか」は全く不確定の要素だから。

もちろん、ぼくのいうロールモデルとしての"自分像"を探していく上では、繰り返しにはなるが、過去の自分が他者との関係性によってどのように構築されてきたかという視点で考えることは必要不可欠だ。


今までをみるか、これからをみるか。

自分探しという言葉には二方向への視点が存在し、後者について考えうるのは自身という主体にしかなし得ないことではないだろうか。

自分探しで"病んで"しまうのは、この二方向の視点をごちゃ混ぜにしたまま自己分析を行うという取り組み方の問題だと言えよう。


もし健全な自分探しの手法において袋小路に陥ってしまうことがあれば、他者の視点からの意見に示唆を求めるのも大いに有効だろう。

だが、自らの人生を全うしてくれるのは自分以外他ならないのであり、どれだけ他者に影響を受けようとも主体者としてハンドルを切れるのは自分だけであり、そこでの能動性は忘れてはならないと思う。


メモからコピペしたらフォントが崩れた。 ごめんなさい。

アメスピメンソール9mm

新宿のコメダ珈琲で説明会までの時間を潰していたら、煙草の話をしたくなった。嫌煙家の方は画面を閉じよう。

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ぼくは比較的ヘビースモーカーで、しかも煙草をころころ変えるタイプの人間だ。雑食といった方が適切かもしれない。

「ピースとハイライト」はどっちも好きだし、キャスターもセッターもマルボロダンヒルも吸う。なんならキセルも持っているし、葉巻(安いアジア製だが)も嫌いじゃない。水煙草の妙ちきりんなフォルムも可愛らしい。ダサいと罵られがちだが電子煙草も悪くないと思う。

銘柄の浮気傾向は、そのまま異性への浮気傾向だなんて俗説もあるらしい。

なにもそんなところにまで一貫性を求めないで良いだろうとは思うが、もし酒好きを自称する人間が「ビールとウィスキーと焼酎と日本酒とワインを嗜みます。あ、でもカルーアミルクも悪くないと思いますよ」などと抜かしたら、確かに節操無しのアル中というレッテルを免れないだろう。間違っても、バーに座ったスタイリッシュな男をイメージするのは困難だ。いわんや異性関係をや。

おそらく煙草もそうで、嗜好と中毒の境界線は一途さの上に引かれているのではないだろうか。

格好良さにはこだわりがつきものだ。映画『SCOOP』での福山雅治はコイーバを愛飲し、路上喫煙、ポイ捨て、と嫌煙家発狂待った無しの振る舞いを見せるが、投げ捨てたマナーを補って余りある艶やかさを漂わせている。(本人のイケメンさだろとか言わないでほしい)

ぼくが真似して同じ銘柄を買ったら酷くむせた。

閑話休題

友人から、煙草が主食、ヤニカス、悪食、ニコ中などなど愛すべき称号をいただいているぼくだが、マジで全くこだわりがないワケではなく、特に愛着のある銘柄がいくつかある。

その1つがアメリカンスピリットの9mmメンソールで、初めて常喫し始めた煙草だ。鬱屈を晴らしたかったクセに下戸で酒に溺れることも出来なかった2年前の自分にとって、コンビニレジの長方形はとても魅力的に映った。

そして、アメスピの"ホンモノ感"と、メンソールのお手軽感のハイブリッドは、ぼくの背伸びした自尊心と臆病を巧みにくすぐってくれた。

様々浮気をしながらたまにこれを吸って、鼻に抜ける清涼感と混じり気のない草の香りを感じる時、極小の社会で折り合いがつけられずにウダウダ物思いに耽っていた夜を思い出すのである。

煙草に限らず、文庫本、チューハイ缶、腕時計、スマホのアプリなど、すでに生活に浸透しきったモノに一時距離をとって思いを馳せてみると、ちょっとの郷愁と安らぎを感じることがある。

ぼくの場合、不思議なことに写真などの"いかにも"な思い出の品よりも、不意にやってくるこのような回顧に心を揺らされるのだ。

このわけのわからない世知辛い社会において、それらはテストの日の昼休みのように頼りない安らぎかもしれないが、確かに自分を支えてくれることがあるかもしれない。

中村文則『教団X』を読みました

「誰に何と言われようとも、私は全ての多様性を愛する」(本文より)

 

今回は、芥川賞作家中村文則の『教団X』についての感想です。

(可能な限り)短めに締めようと思います。

 

この本は、著者が「現在の自分の全て」と語るほどの力作で、ぼく自身本屋で見たときの背表紙の存在感に圧倒されました。その辺の辞書くらいの厚みはあるんじゃなかろうか。

我が家の本棚はすでに飽和状態でしたが、ぼくは文庫版刊行まで待てないタチでして、葛藤の末Kindle版をiPhoneにDL購入して読みました。

近所のファミレスで数時間スマホに向き合い続ける大学生の様は尋常ならざる雰囲気だったと思います(笑)

 

この物語は、対照的な2つの新興宗教を軸に、それに関わる多数の人物の思惑がうごめく群像劇です。

話は、不可思議な出会いの果てに失踪を遂げた彼女を探そうとする男のシーンから始まります。それを追って男は2つの教団を巡る事件に翻弄されることになります。

あらすじはこんな感じです。

 

ぼくの感想は、結論から言うと、面白いけど期待し過ぎた、といったところでしょうか。

 

先に予防線を張っておくと、基本的にぼくは辛口批評とかそう言う類の文章が嫌いです(笑)

どの立場でぬかしとんじゃハゲって気持ちになりますし、一人の人間が"全力を尽くした結果"それが全くカケラも響かないという現象は、基本的には受け取る側の問題だと思っています。(小説に限らず他の全てのフィクションや、スポーツ、教育現場、仕事、面接(笑)等においても)

 

よって、今回はスタンスとしては批判的に書くことになりますが、全く、決して、そういう上から目線を気取る目的はありません。

どちらかというと、自分にとって本作がこれまでの著者の作品ほど響かなかったポイントを分析することで、裏から見て自分の感性を分析したいというニュアンスです。

ということで、従来作よりインパクトが(ぼくにとって)弱かった理由を考えてみると、以下3点でしょうか。

1."総集編の劇場版"感

2.言いたいことの根っこの分かりにくさ

3.キャラの多さによる、各々の書き込みの物足りなさ

1に関して、これはぼくのスタンスなんですが、アニメの1クール総集編映画とかってあるじゃないですか。

すでに原作を通しで見たことがある場合、あの類の映画を見る気が起きないんですよね。 どっちかというと完全続編を作って欲しい派です。

『教団X』について、それと似た読後感を覚えてしまいました。

中村文則作品に顕著な、人間性に対する深い洞察、化け物じみた悪の存在に感じてしまう畏敬、陰鬱でありながら読者の手を止めさせない筆力等々の特徴は健在です。

しかし、過去作品に比べて、何かしらの突き抜けた『教団X』特有の面白さが薄いかなあと思いました。

「性」への言及がそれなのかなとも思いますが、本筋への絡みや描写の必要性は薄い気がします。(書き忘れましたが、結構R18描写多いです)

 

2について、ぼくはこの作品の根っこのテーマは「あらゆる人生の肯定」だと受け取りました。

ファシズム反対」だと言う人もいるかもしれません。というのも、作中右傾化していく日本へかなり批判的な描写がなされるからです。

本の解釈は読者の自由ですしそれに間違いはないでしょう。 ただ、ぼく個人としては、それらのテーマは絞られていた方が分かりやすくて良いと思います。その方がより鋭く深い言及ができるでしょうし。

実際各々のテーマで見ると、前者については著者過去作品の方が、後者についてはジョージ・オーウェルの『1984年』や伊坂幸太郎の『魔王』の方がなどと、自分の中で他の本の影が見え隠れしてしまいました。 (こういう読み方は良く無いとは思いますが)

 

3についてはそのまんまですかね。

本作は著者の作品の例に漏れず、悪や闇を抱えた一筋縄ではいかない人物たちが多く登場します。というか全員そうです。

従来作では少ない人物にフォーカスする分、内面描写を徹底することで心の黒い部分の深みを増していたと思うのですが、本作は群像劇ゆえかどうしても深堀が足りずに、人間性がチープに思えてしまうキャラがいたように感じました。

メチャクチャ悪い表現をすると、twitterによくいるメンヘラレベルの説得力のキャラも少なくなかったかなと。

 

というところでまとめると、ぼくは中村文則作品には、より狭く深い領域に対する言及を求めているのでしょう。 そういう意味で、エッジの利き方が従来作品に対して物足りなく思ってしまったのだと思います。

どちらかというと、元々のファンよりも新しくこの作者に興味を持った人の方がハマりやすいのではないでしょうか。

中村文則作品をよく知らない人がぼくのこの長文を読むかどうかは甚だ疑問ですが(笑)、ご一読いただいて意見をくれたりしたら面白いなと思います。

 

アウェー感

住めば都、郷に入れば郷に従え、朱に交われば赤くなる、等々、環境への順応に言及することわざは数多くある。

田舎だなんだと悪態を吐きながらも、実家、大学、職場のある街に安心感を覚えるようになっていたなんて経験はよくある話だ。

裏から言えば。

駅に降り立って、妙に浮ついて地に足のつかない感覚。ラーメンに漂う油みたいに、どう足掻いても溶け込みきれない感覚。もっと悪い時には純粋で本能的な不安感。

こんな感覚に襲われる経験も、一般的に少なくはないはずだ。

スポーツ観戦のアウェー状態とはまた別種だろう。それはサポーター(場合によってはフーリガン)達による人為的なモノだ。

しかし、街の空気に馴染めない状態。その原因は自分の内側が直接生み出す違和感だ。不慣れで見知らぬ環境への不安は、場所からではなく自分の心から発される。

下手な比喩まで使ってテメェは何を当たり前のことをほざきやがって、と罵声が聞こえるが、勘弁願いたい。

僕が言及したいのは、その感覚そのものというより、街毎に相性というか、色というか、順応しやすさみたいなモノが確固としてあるのではないか、という疑問だ。

都会だとか田舎だとか観光地だとか、その程度のレベルの色の違いであれば、誰だって当たり前に感じられるだろうし、むしろなんの違和感も覚えないのはかなりのツワモノだと言える。

僕は就活の佳境を迎えるまで、都会は結局どこも変わらないものだと考えていた。「東京は結局博多や梅田や名古屋や仙台や札幌が沢山繋がってるような街だ」なんて話はよく耳にするし、僕も漠然とそう思っていた。

ただ、最近そうでもないなと思ったきっかけが、上述したような違和感だということだ。

ここからはもう完全に、ポエムすら脱してただの分かりにくい主観に陥るのだが、訪れる頻度や距離感はほぼ変わらないのに、八重洲や銀座なんかと比べて丸の内に馴染めない。

色で言うなら、丸の内は清潔な白、八重洲は青か薄紫、銀座はグレー。

外資系企業もいるし、日系大手もいるし、商業ビルもあるし、どこも都市化の度合いはそう違わない気がするのにこのような感覚を覚えるのはなぜだろうか。それともこれは、所詮若輩の就活生の視点に過ぎず、この辺の企業勤めが決まればどこも同じに見えてくるのだろうか。

なにぶん、僕は土地にこだわりなく生きてきたタチの人間なので、この感覚に答えを出すのは難しそうである。投げっぱなしではあるが筆を置きたい。やはりアウトプットの場があるとは良いもので、思考を出力しつづけていたら気持ちが落ち着いてきた。

朝っぱらからだらだらと書き連ね最終的に筆を投げておきながら、つまり何が言いたかったのかというと。

これから、丸の内で行われる人事面接が、果てしなく、ダルい。

おはようございます。

不感症

「臥薪嘗胆し過ぎて味覚障害」なんて歌詞が某バンドに有るらしいが、最近の心境はそんな感じだ。

年明け前までは、主にコンプレックスを原動力に就活を続けてきた。

自分より早く内定を得ている学生への焦り、お祈りメール(同情するなら選考通して)への落胆といった黒いモヤを、牛みたいに消化・反芻することで、なんとか心の安定を保てていたと思う。

おかげさまで、最近やっとマイナス感情からふっきれることができた気がする。

しかしある時気付いてしまった。

モチベーションが、湧かない。

反骨精神、コンプレックス、負けん気、何くそ根性、嫉妬、焦り、怒り、殺意。

何でもいいが、これまでの人生で確かに一種の原動力として成立していた感情を無理矢理ぼかしきってしまったためか、前を向こうという気持ちまでも薄れ切ってしまったみたいだ。

思えばこれまでも、小学校・中学校で運動音痴に気付くと同時にテストが得意だと分かった時、高校ラグビーで練習についていけなくなりながらも、自分より上手い同期たちが先に辞めていくのを見た時、大学のサークルで立場を失った時などなど、そこで自らを奮起させたのは上のような感情だった。

就活という常に自省を求められる状態で、無理に理性と感情をバトらせた結果の歪な精神状態なのか、それとも、そもそも反骨精神を保ち続けるエネルギーが欠落していたのか。

個人的には、後者の色が強い感じだ。

肥大した自意識と20年間向き合い続け、ある意味涅槃に至ったと言ってもいいのかもしれない。

まさしく"臥薪嘗胆しすぎて味覚障害"。

だがそれでも、なんやかんや日本に生まれ大学を出ようとしている以上、今後の食い扶持とコミュニティをもぎ取る努力は必然求められるのだろう。

現状維持は衰退の始まり、なんて格言があるが、何とも世知辛い情勢だ。生きようとも死のうともしなければ向かうは結局破滅である。

悟りでは飯は食えない。

家族は健在、奨学金も背負ってる。

そんな凡人が平凡に生きるためにはここで非凡な努力が必要だ。

んなこたわかっているし、へっぴり腰だろうと顔だけでも前を向く。

そこへ颯爽と「益々のご健勝とご活躍をお祈り申し上げます」……。

ままならねえな。