学生読書日誌

ハッピーヘブンのふきだまり

主に読書感想文をかきます

自分探しは"病気"なのか?

久しぶりの更新である。
なんだかんだ、年度明け以降ざっくり2週間以内くらいのペースでは更新を継続していたという自分に驚き。緩く長く続けていきたい。

相も変わらず就活中で都内にいるわけだが、早朝の時間潰しにファミレスで読んだブログ記事が面白かった。
http://globalbiz.hatenablog.com/entry/2016/01/09/000858
筆者の方は日系メーカー→外資系企業のキャリアを踏まれているようで、貼らせてもらった記事以外にも、組織論やキャリア観の領域で含蓄深い事を書かれている。(自分がそれらを十全に活かしうるキャリアを積めるかどうかは置いておく)

今回は、当該ブログの上記記事を読んで考えた事をつらつらまとめようと思う。結果としては反論の形になるが、大いにぼくの主観と経験則に基づくものである点をご容赦いただきたい。もし読んでくれた人がいたら考えを聞かせてくれると嬉しい。


以下引用。

「自分探し」というのは、いまを生きる人の宿痾のようなもので、みな多かれ少なかれ人生において「自分らしさ」というやつを追求しようとしてしまう。でも残念ながらこの追求はどこにも行き着かない。なぜなら、「自己」というのは、それ自体で存在するものでなく、他者との関係性によって規定され、浮かび上がってくるものだから。

アキコのセリフが泣けるのは、彼女がこのことに改めて気づき、素直な気持ちを吐露しているから。漫画が描きたい、なんとか売れたい、こう願って先生のことを忘れて東京で仕事にのめり込む作者。でも、彼女は先生の死に触れて、自分の存在が先生との関係を通じて構築されていることに気づく。師匠である先生が最後まで言い続けた「描け」という激を通じてこそ、漫画家としての彼女の存在が立ち上がるのだということを。

「実存は本質に先立つ」のではなくて、我々の主体は関係性(システム)によって規定されているのだと構造主義は主張し、サルトル実存主義)の息の根を止めた。けれど、我々の社会では、いまだに自分探しによって「ほんとうの自分」にいつか辿り着くのだ、という神話が流通している。その先は袋小路でしかないのに。

以上引用。


筆者は読まれた漫画についてこうした考察を述べている。

だがぼくの考えとしては、自己が周囲の関係性に規定されることを根拠にして自分探しを"気の病"として斬って捨てることはできないと思う。

ここで言う自分探しとはつまり、個人で完結しうるアイデンティティの追求であり、なぜそれを行うかといえば、結局、自分の人生に価値を見出せていない状態をどうにかしたいと感じるからだろう。

言い換えれば、昨今話題になる自分探しの本質とは、各々の個人がそれまでの他者関係や経験を省みたその上で、「これからどのように生きていけば自分は満足できるか?そのための指針はどこにあるか?」という未来志向の改革意識なのではないだろうか。

おそらく筆者がいう自分探しは、「これまでの自分がどんな存在であったか」という意味での過去に目を向けた営みであって、その視点においては確かに独立確固とした自己像などは存在しないのかもしれない。人間は社会的動物であり、他者との関係無しに生きてきた人間などあり得ない。その観点無しに過去の"自分"を探すことは確かに不毛だろう。


だが、「これからの自分がどう生きていくべきか」というスタンスを取る視点においては、その人なりのロールモデルとしての"自分像"を定める営みはあって然るべきだ。

なぜなら、他者が「これからの自分の人生にどのように関係してくるか」は全く不確定の要素だから。

もちろん、ぼくのいうロールモデルとしての"自分像"を探していく上では、繰り返しにはなるが、過去の自分が他者との関係性によってどのように構築されてきたかという視点で考えることは必要不可欠だ。


今までをみるか、これからをみるか。

自分探しという言葉には二方向への視点が存在し、後者について考えうるのは自身という主体にしかなし得ないことではないだろうか。

自分探しで"病んで"しまうのは、この二方向の視点をごちゃ混ぜにしたまま自己分析を行うという取り組み方の問題だと言えよう。


もし健全な自分探しの手法において袋小路に陥ってしまうことがあれば、他者の視点からの意見に示唆を求めるのも大いに有効だろう。

だが、自らの人生を全うしてくれるのは自分以外他ならないのであり、どれだけ他者に影響を受けようとも主体者としてハンドルを切れるのは自分だけであり、そこでの能動性は忘れてはならないと思う。


メモからコピペしたらフォントが崩れた。 ごめんなさい。

アメスピメンソール9mm

新宿のコメダ珈琲で説明会までの時間を潰していたら、煙草の話をしたくなった。嫌煙家の方は画面を閉じよう。

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ぼくは比較的ヘビースモーカーで、しかも煙草をころころ変えるタイプの人間だ。雑食といった方が適切かもしれない。

「ピースとハイライト」はどっちも好きだし、キャスターもセッターもマルボロダンヒルも吸う。なんならキセルも持っているし、葉巻(安いアジア製だが)も嫌いじゃない。水煙草の妙ちきりんなフォルムも可愛らしい。ダサいと罵られがちだが電子煙草も悪くないと思う。

銘柄の浮気傾向は、そのまま異性への浮気傾向だなんて俗説もあるらしい。

なにもそんなところにまで一貫性を求めないで良いだろうとは思うが、もし酒好きを自称する人間が「ビールとウィスキーと焼酎と日本酒とワインを嗜みます。あ、でもカルーアミルクも悪くないと思いますよ」などと抜かしたら、確かに節操無しのアル中というレッテルを免れないだろう。間違っても、バーに座ったスタイリッシュな男をイメージするのは困難だ。いわんや異性関係をや。

おそらく煙草もそうで、嗜好と中毒の境界線は一途さの上に引かれているのではないだろうか。

格好良さにはこだわりがつきものだ。映画『SCOOP』での福山雅治はコイーバを愛飲し、路上喫煙、ポイ捨て、と嫌煙家発狂待った無しの振る舞いを見せるが、投げ捨てたマナーを補って余りある艶やかさを漂わせている。(本人のイケメンさだろとか言わないでほしい)

ぼくが真似して同じ銘柄を買ったら酷くむせた。

閑話休題

友人から、煙草が主食、ヤニカス、悪食、ニコ中などなど愛すべき称号をいただいているぼくだが、マジで全くこだわりがないワケではなく、特に愛着のある銘柄がいくつかある。

その1つがアメリカンスピリットの9mmメンソールで、初めて常喫し始めた煙草だ。鬱屈を晴らしたかったクセに下戸で酒に溺れることも出来なかった2年前の自分にとって、コンビニレジの長方形はとても魅力的に映った。

そして、アメスピの"ホンモノ感"と、メンソールのお手軽感のハイブリッドは、ぼくの背伸びした自尊心と臆病を巧みにくすぐってくれた。

様々浮気をしながらたまにこれを吸って、鼻に抜ける清涼感と混じり気のない草の香りを感じる時、極小の社会で折り合いがつけられずにウダウダ物思いに耽っていた夜を思い出すのである。

煙草に限らず、文庫本、チューハイ缶、腕時計、スマホのアプリなど、すでに生活に浸透しきったモノに一時距離をとって思いを馳せてみると、ちょっとの郷愁と安らぎを感じることがある。

ぼくの場合、不思議なことに写真などの"いかにも"な思い出の品よりも、不意にやってくるこのような回顧に心を揺らされるのだ。

このわけのわからない世知辛い社会において、それらはテストの日の昼休みのように頼りない安らぎかもしれないが、確かに自分を支えてくれることがあるかもしれない。

中村文則『教団X』を読みました

「誰に何と言われようとも、私は全ての多様性を愛する」(本文より)

 

今回は、芥川賞作家中村文則の『教団X』についての感想です。

(可能な限り)短めに締めようと思います。

 

この本は、著者が「現在の自分の全て」と語るほどの力作で、ぼく自身本屋で見たときの背表紙の存在感に圧倒されました。その辺の辞書くらいの厚みはあるんじゃなかろうか。

我が家の本棚はすでに飽和状態でしたが、ぼくは文庫版刊行まで待てないタチでして、葛藤の末Kindle版をiPhoneにDL購入して読みました。

近所のファミレスで数時間スマホに向き合い続ける大学生の様は尋常ならざる雰囲気だったと思います(笑)

 

この物語は、対照的な2つの新興宗教を軸に、それに関わる多数の人物の思惑がうごめく群像劇です。

話は、不可思議な出会いの果てに失踪を遂げた彼女を探そうとする男のシーンから始まります。それを追って男は2つの教団を巡る事件に翻弄されることになります。

あらすじはこんな感じです。

 

ぼくの感想は、結論から言うと、面白いけど期待し過ぎた、といったところでしょうか。

 

先に予防線を張っておくと、基本的にぼくは辛口批評とかそう言う類の文章が嫌いです(笑)

どの立場でぬかしとんじゃハゲって気持ちになりますし、一人の人間が"全力を尽くした結果"それが全くカケラも響かないという現象は、基本的には受け取る側の問題だと思っています。(小説に限らず他の全てのフィクションや、スポーツ、教育現場、仕事、面接(笑)等においても)

 

よって、今回はスタンスとしては批判的に書くことになりますが、全く、決して、そういう上から目線を気取る目的はありません。

どちらかというと、自分にとって本作がこれまでの著者の作品ほど響かなかったポイントを分析することで、裏から見て自分の感性を分析したいというニュアンスです。

ということで、従来作よりインパクトが(ぼくにとって)弱かった理由を考えてみると、以下3点でしょうか。

1."総集編の劇場版"感

2.言いたいことの根っこの分かりにくさ

3.キャラの多さによる、各々の書き込みの物足りなさ

1に関して、これはぼくのスタンスなんですが、アニメの1クール総集編映画とかってあるじゃないですか。

すでに原作を通しで見たことがある場合、あの類の映画を見る気が起きないんですよね。 どっちかというと完全続編を作って欲しい派です。

『教団X』について、それと似た読後感を覚えてしまいました。

中村文則作品に顕著な、人間性に対する深い洞察、化け物じみた悪の存在に感じてしまう畏敬、陰鬱でありながら読者の手を止めさせない筆力等々の特徴は健在です。

しかし、過去作品に比べて、何かしらの突き抜けた『教団X』特有の面白さが薄いかなあと思いました。

「性」への言及がそれなのかなとも思いますが、本筋への絡みや描写の必要性は薄い気がします。(書き忘れましたが、結構R18描写多いです)

 

2について、ぼくはこの作品の根っこのテーマは「あらゆる人生の肯定」だと受け取りました。

ファシズム反対」だと言う人もいるかもしれません。というのも、作中右傾化していく日本へかなり批判的な描写がなされるからです。

本の解釈は読者の自由ですしそれに間違いはないでしょう。 ただ、ぼく個人としては、それらのテーマは絞られていた方が分かりやすくて良いと思います。その方がより鋭く深い言及ができるでしょうし。

実際各々のテーマで見ると、前者については著者過去作品の方が、後者についてはジョージ・オーウェルの『1984年』や伊坂幸太郎の『魔王』の方がなどと、自分の中で他の本の影が見え隠れしてしまいました。 (こういう読み方は良く無いとは思いますが)

 

3についてはそのまんまですかね。

本作は著者の作品の例に漏れず、悪や闇を抱えた一筋縄ではいかない人物たちが多く登場します。というか全員そうです。

従来作では少ない人物にフォーカスする分、内面描写を徹底することで心の黒い部分の深みを増していたと思うのですが、本作は群像劇ゆえかどうしても深堀が足りずに、人間性がチープに思えてしまうキャラがいたように感じました。

メチャクチャ悪い表現をすると、twitterによくいるメンヘラレベルの説得力のキャラも少なくなかったかなと。

 

というところでまとめると、ぼくは中村文則作品には、より狭く深い領域に対する言及を求めているのでしょう。 そういう意味で、エッジの利き方が従来作品に対して物足りなく思ってしまったのだと思います。

どちらかというと、元々のファンよりも新しくこの作者に興味を持った人の方がハマりやすいのではないでしょうか。

中村文則作品をよく知らない人がぼくのこの長文を読むかどうかは甚だ疑問ですが(笑)、ご一読いただいて意見をくれたりしたら面白いなと思います。

 

アウェー感

住めば都、郷に入れば郷に従え、朱に交われば赤くなる、等々、環境への順応に言及することわざは数多くある。

田舎だなんだと悪態を吐きながらも、実家、大学、職場のある街に安心感を覚えるようになっていたなんて経験はよくある話だ。

裏から言えば。

駅に降り立って、妙に浮ついて地に足のつかない感覚。ラーメンに漂う油みたいに、どう足掻いても溶け込みきれない感覚。もっと悪い時には純粋で本能的な不安感。

こんな感覚に襲われる経験も、一般的に少なくはないはずだ。

スポーツ観戦のアウェー状態とはまた別種だろう。それはサポーター(場合によってはフーリガン)達による人為的なモノだ。

しかし、街の空気に馴染めない状態。その原因は自分の内側が直接生み出す違和感だ。不慣れで見知らぬ環境への不安は、場所からではなく自分の心から発される。

下手な比喩まで使ってテメェは何を当たり前のことをほざきやがって、と罵声が聞こえるが、勘弁願いたい。

僕が言及したいのは、その感覚そのものというより、街毎に相性というか、色というか、順応しやすさみたいなモノが確固としてあるのではないか、という疑問だ。

都会だとか田舎だとか観光地だとか、その程度のレベルの色の違いであれば、誰だって当たり前に感じられるだろうし、むしろなんの違和感も覚えないのはかなりのツワモノだと言える。

僕は就活の佳境を迎えるまで、都会は結局どこも変わらないものだと考えていた。「東京は結局博多や梅田や名古屋や仙台や札幌が沢山繋がってるような街だ」なんて話はよく耳にするし、僕も漠然とそう思っていた。

ただ、最近そうでもないなと思ったきっかけが、上述したような違和感だということだ。

ここからはもう完全に、ポエムすら脱してただの分かりにくい主観に陥るのだが、訪れる頻度や距離感はほぼ変わらないのに、八重洲や銀座なんかと比べて丸の内に馴染めない。

色で言うなら、丸の内は清潔な白、八重洲は青か薄紫、銀座はグレー。

外資系企業もいるし、日系大手もいるし、商業ビルもあるし、どこも都市化の度合いはそう違わない気がするのにこのような感覚を覚えるのはなぜだろうか。それともこれは、所詮若輩の就活生の視点に過ぎず、この辺の企業勤めが決まればどこも同じに見えてくるのだろうか。

なにぶん、僕は土地にこだわりなく生きてきたタチの人間なので、この感覚に答えを出すのは難しそうである。投げっぱなしではあるが筆を置きたい。やはりアウトプットの場があるとは良いもので、思考を出力しつづけていたら気持ちが落ち着いてきた。

朝っぱらからだらだらと書き連ね最終的に筆を投げておきながら、つまり何が言いたかったのかというと。

これから、丸の内で行われる人事面接が、果てしなく、ダルい。

おはようございます。

不感症

「臥薪嘗胆し過ぎて味覚障害」なんて歌詞が某バンドに有るらしいが、最近の心境はそんな感じだ。

年明け前までは、主にコンプレックスを原動力に就活を続けてきた。

自分より早く内定を得ている学生への焦り、お祈りメール(同情するなら選考通して)への落胆といった黒いモヤを、牛みたいに消化・反芻することで、なんとか心の安定を保てていたと思う。

おかげさまで、最近やっとマイナス感情からふっきれることができた気がする。

しかしある時気付いてしまった。

モチベーションが、湧かない。

反骨精神、コンプレックス、負けん気、何くそ根性、嫉妬、焦り、怒り、殺意。

何でもいいが、これまでの人生で確かに一種の原動力として成立していた感情を無理矢理ぼかしきってしまったためか、前を向こうという気持ちまでも薄れ切ってしまったみたいだ。

思えばこれまでも、小学校・中学校で運動音痴に気付くと同時にテストが得意だと分かった時、高校ラグビーで練習についていけなくなりながらも、自分より上手い同期たちが先に辞めていくのを見た時、大学のサークルで立場を失った時などなど、そこで自らを奮起させたのは上のような感情だった。

就活という常に自省を求められる状態で、無理に理性と感情をバトらせた結果の歪な精神状態なのか、それとも、そもそも反骨精神を保ち続けるエネルギーが欠落していたのか。

個人的には、後者の色が強い感じだ。

肥大した自意識と20年間向き合い続け、ある意味涅槃に至ったと言ってもいいのかもしれない。

まさしく"臥薪嘗胆しすぎて味覚障害"。

だがそれでも、なんやかんや日本に生まれ大学を出ようとしている以上、今後の食い扶持とコミュニティをもぎ取る努力は必然求められるのだろう。

現状維持は衰退の始まり、なんて格言があるが、何とも世知辛い情勢だ。生きようとも死のうともしなければ向かうは結局破滅である。

悟りでは飯は食えない。

家族は健在、奨学金も背負ってる。

そんな凡人が平凡に生きるためにはここで非凡な努力が必要だ。

んなこたわかっているし、へっぴり腰だろうと顔だけでも前を向く。

そこへ颯爽と「益々のご健勝とご活躍をお祈り申し上げます」……。

ままならねえな。

三島由紀夫『不道徳教育講座』を読みました

 お久しぶりです。

 就活やらなんやらで週一投稿が厳しくなってきましたが、ES入力フォームに中指立てながら、だらだらと続けていく腹づもりです。Webライターインターンとかもらえないかな?

 それにしても最近、アウトサイダー人間に傾いている気がします。書評ブログなんて始めちゃったからでしょうか?小説家の文章の深みには恐れ入りますね。自分のようなハンパ者はいとも簡単に溺れてしまいそうです。

 というわけで、今回は文豪・三島由紀夫の風刺エッセイ集『不道徳教育講座』の紹介記事で行きたいと思います。

 

 この本で著者は、一般的な道徳良識を滑稽に皮肉り、彼の人間観でもって「知らない男とでも酒場に行くべし」「女から金を搾取すべし」「沢山の悪徳を持て」「罪は人に擦り付けるべし」などなど超インモラルな道徳論を展開します。インモラルな道徳論って清純派AV女優みたいでアレですね。

 ともあれ、著者自身の豊富な知識、観察力に裏打ちされたパワフルな文章でもって繰り出される“不道徳”は、ウィットに富んでいて楽しく読み進めることができます。

 また、こういうタイプの文章は冗談だとわかって読むからこそ、逆説的に作者の主張を読み取れる構成になっているわけですが、たまに「三島由紀夫は本気でこう考えていたのでは?」と思ってしまうような項が紛れ込んでいるのも面白い。読者にそう思わせてしまうほどの文章の説得力も、さすが文豪だなという感じです。

 今回は、2つほど印象に残った項を挙げて紹介してこうと思います。

1.いわゆる「よろめき」について

 「よろめき」、つまり浮気について述べた項です。最初に三宅艷子という人の、「女は大げさな肉体関係によらずとも、浮気を結構楽しめるものだ。夫の居ぬ間にお手伝いの男と笑い合うのだって、それは夫婦の関係を何ら害さないが、確かに精神的浮気なのだ」という趣旨の文を引っ張ってきた後、男と女の“浮気観”について著者の考えを語ります。

 著者曰く、男と女の最大の性差は、肉体と精神を分離して考えるか否か、という点です。男はこの二者を区別して意識するが女はそうではない。この差によって、女性の浮気は男の浮気よりも複雑になる。お手伝いの男と談笑するのも、会社の同僚と不倫して行くとこまで行ってしまうのも、つまりは程度問題であり、本質的には変わらない、といいます。よって、男の「体だけの関係だったんだ」という弁解は女性には通用しない、と著者は述べます笑

 この項は風刺というより評論って感じですが、いつの時代も浮気はネタになるんだなと面白みを感じると同時に、この論が正しいかどうかは別として(笑)、著者の文章力に舌を巻きます。

2.死後に悪口を言うべし

 こちらは見出しからインモラルですね笑

 著者はここでは、日米の政治家などを例に挙げ、生きているうちにさんざん罵倒された人間が、いざ亡くなれば周囲に褒め称えられるという現象について疑問を呈します。

 そして、そのような周囲の人間たちの心理を

「相手が元気なら、個人的な嫉妬や怨恨でも正当な怒りに聞こえるが、相手がくたばってしまうと正当な怒りでもみみっちいものに聞こえてしまい、そんなことで評判を下げるのもアホらしいから褒めておくほうが無難である」

「我々は結局死者のことをさっさと忘れたいのであり、それがにくまれていた人間なら尚更だ。そのためには褒めちぎるに限る」

というふうに考えているのだと断じてしまいます。

 著者は、この心理に対して、死者への悪口は死者の思い出をいつまでも周囲が温めておけるという点で、むしろ人間的であるといいます笑

 言動の一貫性を保つために死者に悪口を言え、というのではなく、悪口を言うことでその人を忘れないことが道徳的だから悪口を言え、と言ってのける発想の転換はすごいですね。

 

 久々で疲れたのでこのへんで終わりにします。

 今回挙げた2個は、わりとそのまま三島由紀夫の思想だったのではないかな?とぼくは思います。文学史には疎いので確証は持てませんが。そろそろ古典も読むべきでしょうかね。

中村文則『悪と仮面のルール』を読みました

"……その人間が幸福だったか不幸だったかは、その人間が寿命とか病気とかで死ぬ寸前まで、わからないじゃないか。……何かの温度がさ、過去であれこれからの未来であれ、その人間の長い人生のベクトルの線のどこかに、いくつかあるはずだよ。"(本文より)

最近サボってましたが、久々の読書感想文いきたいと思います。今回読んだのは中村文則の『悪と仮面のルール』という小説です。

この人は、一般にはあまり知名度がないかも知れません。かく言うぼくもピース又吉のエッセイを読んではじめて名前を知りました。

しかしこの人、芥川賞大江健三郎賞を受賞しており、著作は英訳されウォールストリートジャーナルでも年度ベスト10入りを果たしているかなりの実力派です。

ぼく自身、ここ最近はこの人の小説を貪るように読んでおり、そろそろ文庫化されている分はコンプリートしそうです。

この記事ではそんな彼の小説の魅力を少しでもお伝えできればと思います。

物語は、悪辣外道な父親の鬼っ子として育てられた主人公文宏が、愛する女性、香織を守るために父親の殺害を決行するもそのトラウマに苛まれ、結局香織のもとから離れてしまうところから始まります。

その後大人になった文宏は、顔を変え別人として生活しながらも、香織の幸せだけを願い行動し続けますが、ある日、香織の周囲に、かつての父を想起させるような悪意の影が見え隠れするのでした。

以上がざっくりとした大筋です。

この本ですが、サスペンス的な緊張感あるストーリーと、作者の持ち味である、人間性の暗部に対する克明な描写が非常に良いバランスで噛み合っており、さながら芥川賞直木賞のハイブリッドというような面白さでした。

ぼくが以前作者のインタビューを読んだ際も、彼は「小説は文体か物語かの二元論で語られがちだが、どちらも両立することがベストだろう」という風に語っており、まさに作品で以って信条を体現していると思います。

今回は、この小説が構成と描写の両面で優れているということをお伝えしたいという意図で、主に文宏と香織の関係の趨勢を軸に、ぼくの気に入ったところを書きたいと思います。

この2人ですが、出会いは幼少期、「文宏に愛を覚えさせた後に香織を辱めてそれを損ない、絶望を与えることで『邪』としての教育を行う」という文宏の父の企みに基づいています。父は戯れにその企みの概要を文宏に伝え、それを防ぐために文宏は父の殺害を決行するのですが、その経験は文宏の内面に不治の病を宿します。

眼前の巨悪を殺さなければ、唯一愛した人を守ることは叶わない。殺人には、本能的な同種殺害に対する嫌悪感や、社会的倫理による呵責が不可避に伴いますが、文宏のような状態に陥った時に人間はどう振る舞えばいいのか?

この大きなジレンマに文宏は作中通して向き合うことになるわけですが、作者はこれを通じて「なぜ人を殺してはいけないのか?」という哲学的難問を読者に提示します。起承転結の起の時点でスーパーヘビー級です。文宏は、父のような邪の道に堕ちた自分のまま香織に向き合うことができず、自己を消そうとして整形を決行するわけです。顔を変える前の文宏と香織のやり取りは悲痛の一言に尽きますが、それゆえ読者にページをめくる手を止めさせません。

父と同じ穴のむじなと化し、どこか父の面影を感じさせるようになった文宏に対して、香織は自分の愛は健在だと訴えますが、文宏が香織を抱こうとすると彼女の体は強張ってしまう。もはや彼女は自分の愛を純粋に受け容れることができない。他人の悪辣に巻き込まれたに過ぎないが、それゆえにどうしようもない2人の苦悩を推し量れます。あまりに痛ましくて嘆息してしまうシーンです。

殺人という大きなテーマに基づく葛藤と、それを読者も味わわざるを得ないようなストーリーの構成がとても見事だと思います。

この辺の個人的に好きな部分で、 "父を殺したのはある種の正当防衛で、仕方がなかったと言う人も、いるかもしれないと思った。だが、強烈な幸福とあの激しい地獄が通過した僕の未熟な精神は、その一つ一つを整理し、ときほぐすことができなかった。内部に沈殿し、年齢とともにそれはさらに歪み、生きる上での重要な何かを、これからも損ない続けるのだと。しかし、僕の内部が不自然に静かだったのを、よく覚えている。" という文章があります。

もう取り返しがつかないということを受け止めながら、心が奇妙に凪のようになる感覚ってありませんかね?流石にぼくに殺人経験はありませんが、この非常に丁寧かつ淡々とした文体には、どこか"そういう経験"を追体験させるかのような魔力を感じました。

しかし、ただの陰鬱な悲恋で終わらないのがこの物語の良さだと思います。

かなり端折りますが、クライマックスで顔を変え別人として生きる文宏(「文宏の知り合い」と称して話を切り出す時の痛切さには胸を打たれます)と、大人になった香織は言葉を交わします。人を殺め、もはや正体を明かすことのできない文宏は、しかし、かつての想い出を無かったことにはできず、"文宏"は香織の存在が唯一生きる支えになっていたと伝え、この束の間、確かに心を交わすのです。

もちろん円満ハッピーエンドではありませんが、だからこそ、文宏と香織がその瞬間に至るまでに辿ってきた足跡が想起され、読者の感情を強く揺さぶります。2人の会話シーンを読んでいる時、恥ずかしながら久々に小説で涙ぐみました。

この辺で好きな文章だと、 "(前略)あなたのような人がいたから、こんな世界でも、少しは肯定できたって。あなたとの記憶が詰まった自分の意識を、消したくないって。あの日々は確かにあったって。いつまでも自分のままでいたいって。だからーー」 僕の声は、震えて仕方がなかった。" とかですかね。

ここまでの描写が重苦しく血に塗れ救いがなかったからこそ、この辺まで通しで読むと、思わず文宏の想いをトレースしてしまいます。このフレーズは、最終盤の文宏の語りと併せて、「くそったれで理不尽な世界だが、それでも……」という、実存主義的な力強さを感じさせられました。

と、こんなところでしょうか。

ちょっとでも文体の凄みや構成の美しさを感じていただけてたら幸いですが、中盤の部分をかなり端折りましたし、ぼくの拙筆ではこの作者の凄みを伝えきることはやはり難しいので、ぜひ皆さんが手に取って読むことを強くオススメします。

ご一読あれ。