学生読書日誌

ハッピーヘブンのふきだまり

主に読書感想文をかきます

『デジタル・ミニマリスト』と『スイッチ!』で睡眠をガチで改善します。今度は嘘じゃないです。

クソみたいな睡眠を繰り返す毎日

頭が重い。
動悸がする。
腹の調子が悪い。
自分のアホさ加減にイライラする。

カーテンの下から真っ白い朝日がさしてきて、セミがわんわんじゃかじゃか鳴きはじめていた。
就寝時刻は午前5時。
当然の帰結として、目が覚めて布団から立ち上がれたのは正午過ぎ。
連休最終日の午前中をドブに捨てた。

これが友達とハメを外して遊んでいた、とかならまだ交際費の一部として計上できそうなもんだ。
しかし問題は、無目的なネットサーフィンの結果、こんなことが常習化していることだ。
「なんとなく寝る気がしない」というあやふやなモチベのまま、2chの過去ログを読み漁り、はてな匿名ダイアリーに渦巻く怨念を消費して、質の悪い睡眠に苦しめられている。

「なんとなく寝る気がしない」という惰性。
こいつが曲者であり、ここ10年弱戦い続けている宿敵だ。

脳みそ、身体、メンタル。
これらすべてをいっぺんに回復できる貴重な時間を、情報のジャンクフードを買うために浪費し続けている。
今朝(といっても昼間)目覚めて不調を実感して、こんな自分にいよいよ嫌気が差した。

タバコを気前よく吸うためにビタミンCを摂る。
ラクして蓄えを作るために積み立てNISAを買う。
健康と充実感のためにゴールドジムに通う。
見た目の改善のためにひげ脱毛とシミ除去をやる。
恋愛コンプレックスを解消し、人間関係の枯渇に備えるためにマッチングアプリ修行に励む。
専門性コンプレックスを解消し、安定して金を稼ぎ続けるために勉強に励む。

自分のことをそれなりの生活改善ガチ勢だと思っていた。
人生という限られた時間から最大限楽しさを搾り取るために、通り一遍のことには手を付けている自負があった。
しかし、根本的な心身の回復をおろそかにしたまま数々の"有効っぽい"ことをやっていても、基礎工事を行わずにタワマンを建てるようなものだ。
人生の上澄みを享受し続けるためには、土台となる体力と精神力が充実していなければならない。
それをおろそかにし続け、本気で取り組んでこなかった自分の愚かさにうんざりしている(文体がやけにアグレッシブになっているのも、睡眠不足による情緒不安定っぽい)。

そうこうして、真剣に睡眠を改善するために、本格的に作戦を立てようと思った。
そんな時、使えそうな知見がまとまっていた本を読んだことがあったのを思い出した。
これらを活用して真の生活改善を成し遂げるのだ。
後々の自分が振り返るために、せっかくなのでブログ記事として書き起こそうと思う。
この脳内作戦会議議事録が、ネットの海で誰かに役立てば僥倖だ。

『デジタル・ミニマリスト』へ『スイッチ!』して安眠を得る

原因分析と方針

まず、自分が直面しているのはインターネット依存である。
インターネットがもたらすパチンコ的射幸性に、生活の主導権を奪われている。
ブラウジングしても尽きないインスタントな記事や動画によって、報酬系がバグり、本当に"お得"な良い睡眠という選択が出来ない。

ここに効きそうなのが『デジタル・ミニマリスト』という本で、スマホ依存脱出の手引きとして書かれたものだ。

実を言うと冒頭のような問題意識は常日頃抱えており、Twitterの断捨離に成功したのはこの本を読んだ5月ごろだ。
しかし、Twitterと決別しても、Safariがいて、Youtubeがいるのである。
結果、本質的なデジタル断捨離には至れずに今こうして苦悩している。
今一度本書の内容を振り返って、守るべき方針を復習したい。

本書を雑に要約すると、以下のような主旨になる。

  • 昨今のデジタルコンテンツは間欠強化(ランダムな報酬)と承認欲求という概念を利用して、ユーザを行為依存に陥らせるように出来ている
  • 受動的な利用=依存への道なので、どんなメリットを得るために使うのか、明確で具体的な基準を作る

他にも(特にSNSについて)興味深い主張が繰り広げられているが、大枠は上記の通りだ。
依存性の完全な治療には至らなかったが、この本を読んだだけで、少なくともTwitter依存からは抜け出せた。
エビデンスベースで読みやすく、確かに読者を行動に導いてくれる良書だ。

「どんなメリットを得るために、そのデジタルコンテンツを消費するのかという基準を作る」
これが、漫然としたネットサーフィンを止めて睡眠を改善するために、本書から編み出せる1つの方針だろう。

しかし、自分はこれを意識するだけでは完治には至らなかった。
人間の自堕落さを前提として、この方針をどう行動に落とし込んで守っていくか、というカスタマイズされた戦術が必要だ。

戦術

ここで助けになりそうなのが、『スイッチ!』という本で、人間の行動に変化を起こすためのアプローチがまとめられたものだ。

再度雑に要約すると、「1)どうすればいいか頭でわかっていること、2)やる気になっていること、3)やりやすい状況にあること、この3つの相互作用が働いたときに、人間は行動を起こす」という主旨。
これを前提に、1)理性、2)感情、3)環境へのアプローチがまとめられているのが本書である。
例えば以下のようなTipsが、豊富な事例とエビデンスと共に紹介されている。

  • ブライトスポットを探す
    理性へのアプローチ。
    現状の問題点ではなく、ほかの成功例に目を向けて、それを援用するということ。
  • 最初の一歩を描く
    同上。
    まず真っ先に取るべき行動を具体化すること。
  • アイデンティティを養う
    感情へのアプローチ。
    脳は短期的で簡単に手に入る報酬に惑わされるが、これを超えるにはより強固な感情的信念を持つことが有効。
  • 失敗を覚悟する
    同上。
    行動に変化を起こす過程は困難で、失敗はつきものだが、これを理解して覚悟しておかないと、人間は簡単にダメージを受けて挫折してしまうという。
  • 環境を変える
    環境へのアプローチ。
    望む行動を取りやすく&不適切な行動を取りにくくする。

スマホ依存治療&睡眠改善に役立ちそうなものを抜粋してみたが、これらはあくまで一部だ。
「個人の生活、組織の文化、ひいては社会と、何か変えるにはまず、それらの構成要素である人間の行動を変えなければいけない」という、著者が依拠する前提も地に足がついていて、汎用的な良書だと思う。

余談だが、偶然にも『デジタル・ミニマリスト』も『スイッチ!』もハヤカワのノンフィクションだった。
SFもそうだが、つくづくいい本を出す出版社だと思う。

作戦まとめ

これらの本から得られた知見を元に、睡眠改善の作戦をまとめてみよう。

まずは方針。
「どんなメリットを得るために利用するのかを決めて基準を作る」ところ。
(受動的な消費以外で)スマホのブラウザを使うメリット、個人的には調べもの一択だ。
つまり、何かを調べる以外でSafariを開かない、というのが大きな方針になる。

次に、方針を守るためのポイント。
Twitterのケースを考える(ブライトスポット)と、とりあえずアカウントを消して使えなくしてしまい、ブラウザ版からもログアウトして履歴を消してしまう、というのが有効だった。
ブラウザに利用制限をかけてしまう(最初の一歩)のがいいだろう。
方針から考えると、原則利用できないように設定(環境を変える)し、調べものが必要な時にだけ一時的に数分間制限をOFFにするというのが効きそう。
ネットサーフィン依存に苛まれて、十分な睡眠をとれない自分の愚かさを自覚して(アイデンティティ養成)、これをアップしたら即設定する。

こんなところだろうか。
たとえしくじっても、またこの記事を読み返して作戦を改良すればいいと、繊細になりすぎずに構えておこう。
そう、失敗は覚悟の上である……。

『完全教祖マニュアル』 今こそ、プログラミングでも投資でもなく、宗教を学ぼう

また、 日本人の宗教アレルギーは、逆に考えると、付け入る隙であるとも言えます。というのは、彼らは宗教を頭ごなしに嫌うあまり、宗教に対して無知なのです。
(中略)
知識がないということは、つまり、耐性がないということです。彼らは無菌室育ちで免疫がないのですから、これは狙い目というわけです。

儲と書いて信者と読むのか

ちょっと前、オンラインサロンやら情報商材やらのビジネススキームが話題になりました。
運営者の言説に応じて盲信的に身を滅ぼしかねない行動をとるユーザーを揶揄して、「宗教団体じゃん」「教祖化してるな」といった批判を口にする人も多かった印象です。

しかし、そもそも宗教って何でしょうか。
なぜ「教祖」という言葉が「甘言で人々を騙して金を巻き上げる詐欺師」というレッテルとして機能しているのでしょうか。
また、これほど悪評が定着している(ように見える)のに、「カリスマ的個人のありがたいお言葉に課金する」という構造が定期的に盛り上がるのはなぜなのでしょうか。

暇を持て余してそんなことを考えていた折に『完全教祖マニュアル』というベストマッチな本を見つけたので、ここで感想を書いてみようと思います。

先にべた褒めしておくと、今まで読んだ新書の中では一番面白かったです。

キミも教祖になろう!

この『完全教祖マニュアル』、一番面白いのが「いかにして新興宗教の教祖になって幸せになるか」を説いたハウツー本という点です。

ちくま書房から出版されていることから窺えるように、本書の実態は宗教を丁寧に解説する新書なわけで、上述の「教祖とは」「信者とは」「教団とは」という疑問にも、明瞭かつ正確に回答を与えています。
ちなみに、参考文献がマジで100冊近くあって少し引きました(笑)。
しかし著者自身は、序文からあとがきまで一貫して"教祖ハウツー本"という視点を死守しており、それゆえに生まれる読み味は、数多ある解説書とは一線を画す異常な雰囲気を醸し出しています。

また、そんなユニークな著者のスタンスが、独自のギャグセンス&キレキレのブラックユーモアにつながっており、ぶっちゃけ宗教に興味が無くても楽しく読めます。
解説が知識として興味深いのも勿論なんですが、随所に差し込まれるナナメからの痛烈な皮肉が笑えます。
読んだことのない人には恐縮ですが、『サピエンス全史』の筆致が楽しめた人には刺さると思います。

具体例を挙げるとこんな感じでしょうか。

社会的な視点から見れば、仏教なんて本当にろくでもない宗教です。出家は社会との関係を断絶して閉じこもるわけですから、まったく生産性がありません。その上、家族すら捨てるのだからニート以下と言っても良いでしょう。 仏僧はニート以下!

あまりにも唐突な罵倒の復唱ですね。イジり倒してます。現職の方に怒られないのか?

この辺も(堂々と笑っていいのか不安ですが)エッセンスを深く分析しているからこそのゲスな比喩で、著者の文才を感じます。

宗教行為が傍から異常な目で見られたとしても、それが悪いというわけではありません。信者がハッピーならそれで良いのです。オウム真理教も犯罪行為があったからこそ問題になったわけですが、麻原氏の風呂の残り湯を信者に販売すること自体は問題ではなかったのです。アイドルの残り湯なら金を払ってでも飲みたいという変態的男性諸君も少なくないでしょう?それと同じことです。

麻原彰晃の残り湯ビジネス、案外巷に溢れている気がします。
まあ自分も、人のことをとやかく言えるほど生産的な人間ではありませんが……。

この辺はもう解説もクソも無いですね。

本書の読者から続々と感謝のお手紙が届いております!
「人生が一変した!」 一ノ瀬謹和さん(二伍歳)
(中略)
「わずか一カ月で信者が三倍に!」 前田雄亮さん(五二歳)
(中略)
「神の意志を正しく伝えられた!」  脇雄太郎さん(三三歳)

この後のあとがきが名文だったのですが、それを一切予感させないチープさ。
遊び心満載です。

こうした読者の世俗的感覚に寄り添うユーモアも、現代日本の読者が教祖になるためのハウツー本という体裁を保っているからこその特徴だと言えるでしょう。
解説書という看板を背負っていては、ここまで振り切れないと思います。

皆さんは何を信じますか

もう一つ特に良いなと思った点がありまして、「信仰」への健全な向き合い方について示唆を与えてくれるところです。

これが最も濃く表れているのが第4章の「教義を進化させよう」で、ここでは科学的体裁をとることが信者の獲得に有効であると論じられています。

科学は、確かに頭の良い人たちが一生懸命試行錯誤して辿り着いた知恵ではあるでしょう。しかし、その科学を利用する私たちは、別に頭が良いわけでもないし、一生懸命試行錯誤したわけでもないのです。科学自体は論理的かもしれませんが、私たちは非論理的に科学を信用し、それを利用しているのです。非論理的な信用は、つまり「信仰」ですよね。この意味で、科学は確かに宗教であると言えます。しかし、私たちはしばしば科学を「信仰」していることを忘れ、絶対的真理であるかのように錯覚してしまいます。 普通の人は科学であるというだけで頭から信頼します。

「我々にとって最も身近な宗教は"科学教"である。」
とても陳腐な表現ですが、本章の議論を深堀していくことで、物事の蓋然性(確からしさ)に自覚的であることの難しさについて気づかされます。

あらゆる情報に対して完全に科学的態度を取ることは現実的に不可能です。
どれだけその確からしさを遡っても、その情報が述べる現象を自分で再現できない以上、どこかで権威に依拠する(信仰に陥る)ことは避けられません。
つまり、人間が情報を消費する上で信仰を排するのは無理なのです。

上記の通り、「物事の仕組みや情報の正しさについて確定することができるという観念はドグマであり、科学や人間の知性に対する“無自覚な信仰”である」と著者は喝破しています。
要は程度問題であり、科学への信仰が内面化されてしまっていることを自覚して、情報の蓋然性を無理の無い範囲で求めるのが、フツーの人が採用しうる知的な態度と言えるのかなと考えさせられました。

また、こうした、人間の営みをメタ分析する文章を読んでいると、「信仰に批判的な筆者自身は果たして信仰から距離を取れているのか?」という懐疑が必然的に生じるかと思います。
そうした疑問に対しても、「新しい世界の解釈を与えることで人々をハッピーにするのが宗教」「本書は蓋然性の高い情報を編み上げて宗教的概念に対する解釈を提供したものであり、これもまたひとつの宗教と言える」とあとがきで留保を残しており、その姿勢にとても好感が持てました。

単に宗教をイジリ倒しながら解説するだけの文章ならば、ネットにも少なからず挙がっているでしょう。
しかし、そこからさらに一歩進んで、著者自身が宗教・信仰というモノをどう考えているのかというスタンスまで書き切って、自然と読者を内省に向かわせる誠実さが、本書における白眉だと感じました。

読み味の楽しさと痛快さ、内容自体の興味深さ、著者のスタンスの真摯さと、どれを取っても指折りの良い本だったので、興味を持ってくれた方はぜひチラ見してみてください。

ヒゲ脱毛に行き、若林正恭『完全版 社会人大学人見知り学部卒業見込』を読んで、感性について考えた

清潔感をカネで買う

土曜日、湘南美容外科のヒゲ脱毛コースの初回を受診してきた。

生々しい話になって申し訳ないんだけれど、思春期以降濃くなり続ける自分のヒゲに辟易していた。
直近では在宅勤務のおかげで人と会う直前にだけ剃ればよくなったのだが、朝から予定がある日なんかだと、家を出る前に処理しても帰宅する頃にはしぶとく先端が顔をのぞかせている有様だった。
自他共に認める悪人面なので整えれば似合わないことも無さそうだが、伸ばすとなると日頃のケアが必須になるだろう。
そうなると、社会に許される程度の清潔感を維持するコストがかえって増してしまう。余談だが、イスラム圏だと成人男性がヒゲを生やしていることが文化的通念らしい。
清潔感。
この曲者にはいくつかの文脈で散々悩まされてきた。
こいつについて深入りするつもりはないが、まあ悪人面の男性が無精ひげを顔に残した状態に清潔感を見出すことは困難であろう。

こんな悩みを抱えていた折に友人と話すと、その友人も同じようにヒゲの処理に悩みを抱えていたらしい(もっとも、彼の悩みは単に手間がかかるのが嫌だというだけだった)。
話の中では、昨今の20代の中では案外広く市民権を得ているトピックだということもわかり、半分ほどかかっていた自意識のブレーキもパコンと外れてくれた(とはいえ、この投稿をカフェで書いている状況はだいぶ恥ずかしくて、隣に人が座ったのでブログ投稿欄直打ちからコーディング用のエディタに切り替えた)。

そんなこんなで、Webサイトの料金表とカード利用残高を視線で反復横跳びした末に、エイヤの気持ちで入会してきたのである。
鼻下/顎/顎下3部位おまとめの計6回コース、占めて3万円強である。決して安くはない金額だ。
こういうことは、どうせやるなら年齢的にも時間的にも大学生の内に済ませておきたかったが、当時の自分がヒゲのために3万円ポンと出せたかと考えると多分NOだろう。

ところで、美容外科でヒゲ脱毛してもらうことと、服を買ったり美容院に行ったりすることは、ルックスの問題という点では一見近い分野の話にも思えるが、後者には趣味性というかポジティブな性質がある反面、前者はコンプレックスや悩みの解消のための出費であり、モチベーションの源泉が異なっているように思う。
ヒゲ脱毛6回コースと同じくらいの額の服や靴を購入することはたまーにあるわけだが、その際の欲しかったものが手に入った喜びと脱毛コースを受診した時の浮つきは、現に異質な感情だった。
目指す方向も生じるコストも同じであるにも関わらず、プラスを重ねる/マイナスを埋めるというアプローチの違いによって感情の動きが変わるというのは、あえて着目してみると奇妙だ。
自分の浮つきを深堀りしてみると、ある種、何かの特権にアクセスできてしまったような感覚だった。
この不思議な感覚がどういうメカニズムで生じたのかを考えながらつらつら書いてはみたものの、ちょっと答えは出そうにない。
オフィス街のビルの高層階という立地かもしれないし、そんな立地にも関わらず非常に混雑していた待合室の雰囲気がそうさせたような気もする。

ちなみに、脱毛の施術は予想以上に痛かった。
意志を強く持てば耐えられる範疇の痛みだったので、麻酔オプション2000円の追加出費は避けられた。
やっぱり貧乏性はそう簡単に治りそうにない。
……ああ、今わかったけれど、上で書いた特権意識って単に貧乏性の現れだわ。
モノとそれが提供する価値は買わないと手に入らないが、日常に生じる手間を省くためだけに金をかけることにセレブリティを感じていたのかも。

あまり核心を突けてはいないような気もするけど、沼にとらわれる前に切り上げることが出来るのが随筆の良さだ。
堂々巡り終わり。

再読して価値観の差分をとる

いざ腰を据えて考えてみると、自身の金銭感覚そのものにメタ的に無自覚だったとわかる。
自分の内面に根付いてしまっているものは、外から刺激を与えてやらないとその輪郭が掴めないものだ。
そんな感じで、昔読んだ本をもう一度読んだりしてみると往々にして当時とは違う発見がある。

脱毛に行った帰路で、お笑い芸人オードリー若林正恭の著作『完全版 社会人大学人見知り学部卒業見込』というエッセイ集を読んだ。
再読だ。

本書は、M-1グランプリで一気に日の目を浴びて芸能で食っていけるようになってからを自分の社会人生活の始まりだと称する著者が、社会に入門してからの数年で感じた世間とのギャップや自意識の変遷を書き綴ったエッセイである。

1回目に読んだのはそれこそ3〜4年前の大学時代で、その時は深夜ラジオなんて全く聞いてもおらず、気楽に読めて面白いような本を漁っていた最中にネット上の評判を読んで手に取った本だった。
著者のバックグラウンドを殆ど知らない状態でこのエッセイを読んだものだから、個々のエピソードで登場する具体的な番組名や人物名はあまり記憶に残っていない。
イジられる趣味と市民権がある趣味の違いや、飲み会や恋愛への苦手意識、グルメやゴシップへの興味の薄さなど、著者が社会との溝に感じるもどかしさそのものに共感しながら読んでいた覚えがある。

今回は社会人も4年目に差し掛かる状態で読んだわけだが、当時とは面白みを感じるポイントが結構様変わりしていた。
『オードリーのオールナイトニッポン』を聴くようになって著者の歴史や環境への解像度が高まったことで、1回目ではわからなかった個々のエピソードの詳細がなんとなーく読解できるようになり、昔よりも1篇1篇を楽しむことができた。
その一方で、本書の全体的なテーマとしてあった社会に対する斜に構えた視線やわだかまり、そこに対してどう向き合っていくのが良いかという葛藤なんかには、初回ほど共感できなくなっていた。
共感できないというか、内容に納得はしても「まあ社会ってそういうものだよね」と俯瞰で読む部分が多くなっていた。
主観的には社会に対する考えそのものは大学時代から大きく変わっておらず、処世術が多少上達した程度の自己認識だったのだが、そういう形式的な変化は内面にも変化を及ぼすのかも知れない。
また、M1前後の貧乏→裕福という変化が起こす感情の動きの話なんかも印象強さが全然違った。
まあ就職前後でそこにアンテナが生まれたこと自体は至極自然だろうけども、金銭感覚のギャップを文章に起こしてみようと思ったのは、この再読でその項に面白みを感じた自分を発見したからだ。
そういう意味では、脱毛に行ったその足で本書を再読することにした自分の行動の流れはよくできた偶然だった。

再読についてあんまり気づきたくなかったポイントでいうと、個々の話で出てくる人物の年齢を強く意識する自分がいた。
著者やその周りの人達が、何歳の時にどんな思想を持っていて、どんな経験をしていたのか。
加齢と共に他者の年齢を気にすることが増えたというのは、"若者"というレッテルを免罪符として社会生活を生きようとしていた自分がいる事の証明かもしれない。
可処分所得にしても、立ち振舞にしても、価値観や責任にしても、若いということで多めに見てもらえることは数え切れないほど多いだろう。
30歳くらいになって振り返るとそれこそまたガラッと感じ方も変わるんだろうが、若さというパスポートを失う過程で、そのステージにたどり着くまでにドロップアウトしてしまわないかが不安だ。

再読しても感じ方が同じだった部分ももちろん多くて、著者の自意識の手なづけ方に関するエピソードの多くは、初読当時とあまり変わらない読後感だった。
外面的な行動/言動の変化のスピード感に対して、内向する際の思考の道筋や傾向なんかは数年程度では変わらないということなのかも。
三つ子の魂百まで、とはよく言ったもんだ。

感性の可塑性と不可侵性

もう一つ、本書を再読していて感じた変化がある。
最近まで、他人のファンであることをダサいと感じていた自分が、本書を再読してふと「ああ自分は著者のファンだな」と自然と認められるようになっていた
別にファンである対象は何でもよくて、自分に対して"ファン"というラベリングを許すかどうかの話である。

なんでまたこんな思想を持っていたかと振り返ると、「人のファンであるということは、自分と直接的な関係のない人格に対して好ましい感情や肯定感を抱くことであり、それは個性/価値観の外部委託なのではないか?」というような懐疑を抱いていたためだと思われる。
要するに、ファン=信者、信者=ダサいという三段論法が自分の中にあった。
それは多分、サブカルチャーの渦中に身を置きながらも、そういう環境にありがちな"推しは正義"みたいなこと(オタクどうしの内輪ノリ以上の真実味を感じさせるものだった)を嘯く人たちに、漠然とした気持ち悪さを感じていたことが大きかった。
今となっては、そういう人たちがそういう発言をしていたのにもまあ色々背景があるのだろうと配慮を巡らせる余裕がある。

そういう諸々を全部まとめて相対化して、自分の懐疑は杞憂だということを実感できたのが、本書を再読して得られた一番大きな収穫だった。

書いた人間の価値観が色濃く現れた文章を、その人のファンになる前後で期間をあけて再読する、という体験は初めてだが、感想が全く変わる部分、部分的に変わる部分、変わらない部分と、その読み味は想定以上に多様だった。
そして、それらの感情の動きは、自分が著者に対して抱く親近感などには左右されてはいなかった。
それらを規定していたのはむしろ、自分がどのような経験をしてきたかという点だった。
これは、上述した自分の疑念への反証たりうるのだ。
何が言いたいかというと、本書に描かれた著者の価値観について自分がどう感じるかという物差しは、自分が著者のファンになった前後で歪んだりしていないということを初読と再読の感想を比べることで実感できたのが、人のファンであると認めるのが怖くなくなった理由なのかなと思っている。

少し飛躍するが、それを踏まえて「自分が好意を持っている他者から受ける影響も、所詮生きていく中で外部から受ける多様な影響のうちの一つに過ぎない」なんて風に言えるかもしれない。
その人を好きであろうがあるまいが、人は生きていく中で他者の影響を受けて緩やかにその価値観を変化させていくものだ。
そして、"拭いえない唯一絶対の影響"なんてものはそうそう存在しないのだから、他者から影響を受けること、まして「誰々が好き」なんて言うことを恐れる必要はない。

確かに、ある人間から受ける影響や、その価値観に対して感じるモノの多寡は、その人格に抱く関心によって増減することもあるだろうが、それは程度問題に留まるものだと自分は思う。
何を感じて何を感じないか、という感性そのものを決定づけるのは、不可逆的な経験をおいて他にはないのではないだろうか。
それは、他人への関心や好意の有無よりもよっぽど確固としたものだろう。
そんなオリジナリティを見出して、言語化できたような錯覚を抱いていることを、少し嬉しいと感じる。

偏頭痛は繊細で線が細くSNSで主張が強いタイプの方々にしか生じない現象だろうと高をくくっていたことを謝罪します

No More レッテル, No More バファリン

頭が痛い。たぶん偏頭痛と呼ばれるタイプの頭痛だ。 セルフイメージと、偏頭痛という症状の乖離が酷い。気圧の折れ線グラフをチェックするだなんて自分とは無縁だと思っていた。
しかし、厳然たる痛みの前ではそんなギャップはどうでもよくなり、頓服の頭痛薬を飲んで頭を抱えるしかなくなるのである。目の奥から発せられる謎の刺々しい圧力に悩まされながら、頭を抱えるジェスチャーって実在するんだなぁなんてことに気づいた。
「目玉が飛び出る」なんていう表現も、本来は驚きを形容する慣用句だったはずが、 最近の自分の中では頭痛を表す言葉になってしまった。

不条理との付き合い方

社会人になってから、シーズンに1,2回程度の頻度で偏頭痛が顔を出すようになった。
今日はその四半期に1つの不運な日だったようで、寝起きから目に違和感があり、小一時間するとそれが一気に痛みに転じた。
とにかく目の奥が痛くて日本語を読むのもかったるい。ましてソースコードなんて読めるはずもなく、リモートワークを良いことに一切の仕事をサボって「ウー」とか「あぁー」とか悶えながら床で転がっていた。
床に転がる以外で出来たことといえば、「脳の血管収縮を促すためにニコチンとカフェインを摂れば少しはマシになるのか?」とそこまで吸いたくもない煙草を吸うために換気扇の下へ出向いたり、痛みが本格化する前に回した洗濯機のアラームに悪態をついたりくらいである。

偏頭痛というのは人間に生じる不調の中でも特に根治が難しい類の症状らしく、ネットで調べる限りでは、ストレスだったり気圧差だったり程度の見当しかつけられない。
完全リモートワーク&完全フレックスなんて働き方からストレッサーを見出せるほど贅沢になっているとも思えないし、気圧の変化に原因を求めるにしては大した相関も無さそう。

ところで、現象に説明をつけて安心したいというのは人間の本能的な欲求らしい。
しかし、理由の見つからない不都合について「そういうこともあるか」と思えるようになれれば、こういう事態に見舞われたときに長い目で見て回復が早いのではなかろうか。そもそも、世界は秩序だっていて、現象が帰属する原因が必ず存在するという考え方は人間の持つ大きなバイアスの一つであり、それは現代においても変わらないのである。
原因不明な体調不良というのはまさに理不尽という感じがするが、そんな風に考えられればメンタルだけはやられずに済みそう。

話題の飛躍を感じる。

最近読んだ本が公正世界仮説を紹介したり科学と信仰の関係を論じていたりしたのがこんな思考回路に至った原因なので、その点はいつもながらタイムリーというか短絡的な感じ。

だが、予測不可能な頭痛の訪れに立ち向かえるなら何でもいいのである。
頼むから、目玉ノックをやめてくれ。

読書について

THE・凪

直近の更新が晩夏くらいで少しビビった。
最近は、仕事やITの勉強以外の時間では、何も考えずにラジオやバラエティ番組を視聴している。
本もほとんど読んでいないし、特に書きたいことが思い浮かぶわけでもないのでブログの更新も滞る。
なんでかなと軽く内省してみたところ、この半年、スマホSNSから意識的に距離を置いてみたことが影響している気がする。

別に、「昨今の世相に辟易しちまったぜ」みたいなそんな繊細でカッコいい感じではなくて、リモートワークでついついスマホを手に取ってしまって集中力が保てないのを解決したかった。
そうすると、友達や知り合いの近況、ネット上のトレンドなど、ミクロな世情に必然的に疎くなる。
ここからが予想外だったのだが、外向きのアンテナを絞ったことで、情報そのものへの欲求みたいなものがガックリ衰えた気がする。

社会への砦としての趣味:読書

自分でも未だに仕組みが分からない。因果は不明だが相関が認められるというやつ。
なのでテキトーなことしか書けないが、特に読書に絞るなら、それは社会/外界/他者と自分のギャップをチューニングする手段だったというのが、一番しっくりくる言葉選びに感じる。
もちろん、単に娯楽として楽しんでいたし、読書量を重ねることで自分の教養的箔付けみたいなことも狙っていたと思う。
ただ一番はやっぱり、社会との接点という位置づけが大半を占めていたのではなかろうか。
実際、社会の中で他人と関わることを前提としなかった場合、ただ楽しむためだけにイチから本を読み始められる気がしないし、当然箔付けなんて概念も必要なくなるはずだ。
社会人生活3年目&コロナ禍&SNS断ちによって、人との交流が減少&固定されるにつれて本を読む時間が減った、というところからも、これは妥当な推測だと思う。


とりあえず、久々に数百字費やして分かったのが、読み書きはサボると露骨に能力が下がるということでした。
別に、本を読まない自分が嫌、とかは一切ないのがひとまず幸いなところ。

『ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論』を読んだ

夏の終わりと夜半の蝉

社会人の夏の、なんと儚いことでしょうか。

梅雨明けとともに猛暑日のリレーが始まり、世間体を気遣いながら遊びに出かけてちょっと本を読んだかと思えばあっという間に盆休み明け。

そして、月曜日にこれを投稿するつもりがあれよあれよと日々が過ぎてもう日曜。盆明けのテンションと現在のテンションにギャップが生まれたせいで、下書きに残っていた導入部を現在進行形で書き直しているところです。

まあ、そんなことはいいんです。

今回紹介したい本の何がいいかというと、ここ30年間日本人を取り巻き続ける労働の呪縛を薄める一助になりうるところです。

今まさにこれを書いている自分も「マジで最近の仕事、進捗悪くてダルいし辛い」「もう日曜16時なのはバグ」と例外なく呪われちゃってるんですが、読む前ほどそのしがらみは強くない気がします。

で、それがどんな本かというと、デヴィット・グレーバー著『ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論』です。

どうでしょう、この挑発的なタイトル。夏季休暇明けのしんどさと戦うサラリーマンたちに、一端の活力を与えてくれる気がしませんか。

 

"ブルシット・ジョブ"現象

では、この過激な本が実際には何を論じているのか紹介していきたいと思います。

まずは、序章で語られている、本書執筆にいたる前から著者が抱えていたという問題意識を概観するのが良いでしょう。

 

著者曰く、本書の執筆のきっかけは、あるWebマガジンへ寄稿した小論が尋常ではない反響を呼んだことにあるとのこと。

それを勝手にまとめると以下のようになります。

「テクノロジーの発展によって先進国では"週20時間労働"のユートピアが達成される、という20世紀の予測が実現しなかったのは、政治的理由によって無益で何の意味もない仕事が際限なく生み出され、多くの人がそのような仕事に囚われているからである

このラディカルな主張が提示する"ブルシット・ジョブ"という概念は著者も予想し得なかった大波へ繋がり、ついにはイギリスでの民間世論調査にまで発展したようで、その結果はある種、とても痛快なものでした。

たとえば、あなたの仕事は「世の中に意味のある貢献をしていますか?」という質問に対しては、おどろくべきことに3分の1以上――37%――が、していないと回答したのである (一方、していると回答したのは50%で、わからないと回答したのが13%だった)。(本書では漢数字表記)

「ある論考の仮説がその受容によって裏付けられることがあるとすれば、まさにこの事例がそうである」

……上記のような世間の動きを受けての著者の一節ですが、オシャレな文ですね(笑)

このようにして自らの見立ての正しさを確信した著者が、「"ブルシット・ジョブ現象"についてのより広範かつ本格的な分析を目指した書籍」というのが、本書の位置づけになります。

 

そして、上記の前提を共有したのち、本編では以下の全7章にかけて"ブルシット・ジョブ"に関する分析が行われます。

  1. ブルシット・ジョブとはなにか?
  2. どんな種類のブルシット・ジョブがあるのか?
  3. なぜ、ブルシットジョブをしている人間は、きまって自分が不幸だと述べるのか?(精神的暴力について、第一部)
  4. 同上(精神的暴力について、第二部)
  5. なぜブルシット・ジョブが増殖しているのか?
  6. なぜ、ひとつの社会としてのわたしたちは、無意味な雇用の増大に反対しないのか?
  7. ブルシット・ジョブの政治的影響とはどのようなものか、そしてこの状況に対してなにをなしうるのか?

ラフに要約してみると、1~4章がブルシット・ジョブそれ自体の深堀り、5~7章が社会問題としての原因分析、とまとめられるでしょう。

まず1章では、ブルシット・ジョブが以下のように定義づけられます。

ブルシット・ジョブとは、被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態である。とはいえ、その雇用条件の一環として、本人は、そうではないと取り繕わなければならないように感じている。

続く2章はその具体例、3~4章はそれらが人間の精神にとってどれほど有害であるかという主張です。

ブルシット・ジョブの陰惨さについて語り尽くした後、本書はその原因の探求に移ります。

5~6章では、主にそれが蔓延するに至った社会的・経済的な流れと、人々がそんな(クソみたいな)労働を受け入れてしまうようになった歴史的な流れが論じられます。

終章となる7章では、章題の通り、現在の先進国政治と絡めた考察が行われた後、本書で論じられた状況に対処するための一例として、ベーシック・インカム政策が紹介されます。

「労働は美徳の源泉である」??

以上、ざっくりした本書の流れです。

この本、著者の分析が依拠している言説の時系列的にも分野的にもいかんせんボリューミーで、正直かなり骨が折れました。

訳者の方もあとがきで嘆いていたほどで、読み手としては少し安心しました(笑)

 

ただ、章ごとの具体的な論考はとても明晰です。

ブルシット・ジョブという事象を分析する過程を通して、なんかよくわからないまんま常識とされている価値観や枠組みが、いったいどこから蔓延ってしまったのかという、"労働"の周辺にある漠然とした疑問や嫌悪に説明を与えてくれます。

その点では個人的に、以下の2つの主張が刺さりましたね(論証は割愛……)。

  • 週5で8時間のスタイルは生物学的/歴史的に見て人間の自然なスタイルに矛盾している。
  • 多くの人が信じている"市場原理による効率化"なんて、実際には精々工場の機械化程度にしか適用されていない。ホワイトカラーではむしろ無駄なヒエラルキーが増殖し、太鼓持ちのようなブルシット・ジョブが増えている。

こうした、せいぜいグチ程度にしか昇華できなかった絶妙な違和感を、過去の研究の文献や統計的データを駆使して真正面から根拠づけてくれることで、陳腐な表現ですが、「自分は間違っていなかったんだな」と安心できました。

そして、このような分析を知識として知っておくだけで、自分が働くことについて悩みすぎてしまったとき、それは大事な逃げ道として役立つでしょう。

 

最後になりますが、このように「最近クソみたいな仕事多くね? なんなん?」という切り口から"労働"を体系的に相対化してくれるという本は今まで見たことがなく、とても面白かったです。

ハードルの高さを加味してもなお、現代日本の大多数のサラリーマンは本書に触れてみてもいいんじゃないかなと。ググってみるとよくできた要約もあるみたいですしね。

 

というわけで、ちょうどいいテンションで、明日からもお仕事頑張りましょう(笑)

 

 

 

 

森絵都プラトン野矢茂樹

ここ1週間でだいたい3冊の本を読んだ。
1冊読み終わったら次の1冊という感じではなくて、仕事の休憩中/寝る前/休日にまとめてとシチュエーションを分けて、パラレルに読み進めていった。
小説、新書、古典訳とジャンルが分かれていたのが奏功してか、当初の予想よりはスムーズにやれたと思う。

総論把握のムズさ

1冊目は、プラトンの『メノン 徳について』の光文社古典新訳版。

俗にいうプラトン対話篇のうちの1つで、アテネを訪れた野心家の青年メノンが「徳(人間としての卓越性のようなもの)は教えられるか」とソクラテスに尋ねるところから物語が始まる。
この間読んだ『功利主義入門』のブックガイドに載っていてKindleのサブスクで無料だったので、そろそろ倫理・哲学書の原典を読んでみてもいいだろうと手に取ったのだが……。

……正直、これを寝る前に読むための1冊に選んでよかった。
要するにムズかった。

解説文も、当時の情勢、メノン/ソクラテスの思想背景、プラトンの思想背景と意図を網羅的に解説してくれてはいるのだが、それらについての話題転換が多くて、本文の流れと解説文の流れの対象を把握するのがしんどかった。
総じて、論理を辿る力と興味関心の点で、訳者の想定レベルに自分が到達していなかったかもしれない。

以下のような教訓的描写を通して、これがオリジナルの無知の知か~といった感慨が得られたのは良かった。

  • 近似的にしか物事を知ることができないという意味ではあらゆる人間は無知であるが、それでも探求には大きな意義がある。つまり、無知にもレベルがある。
  • 「Xとはなにか」という問いに答えるには、その抽象的で一般的な性質を、Xという言葉を使わずに説明しなければならない。

その意味で原典の気持ちよさ、満足感みたいなものはあったので、次はもう少しライトな古典に挑戦したい。


2冊目。野矢茂樹の『入門!論理学』。

入門!論理学 (中公新書)

入門!論理学 (中公新書)

日常的につかわれる言葉をベースにして、論理学とは何であるか、命題論理(「ではない」「かつ」「または」「ならば」から成る)や述語論理(命題論理プラス「すべて」「存在する」から成る)とはどのような論理体系なのかを解説する入門的な新書である。

なんでこれを購入したのかはあまりよく覚えていない。
たぶん、プログラマだし論理に強くなれた方がいいっしょ、くらいの軽いノリだったと思う。
しかし、期待以上の面白さだった。
よかったのが、「記号論理学と呼ばれる分野の要旨を、記号を使わずに平文で記述してやろう」という著者の試み。
まさしく自分のような門外漢に最適だ。
文体もカジュアルかつユーモラスで、素晴らしく読みやすかった。

内容面でも、入門というタイトルに違わず以下のような切り口から本文が展開するため、具体的な論理体系の説明をシームレスに理解することができて快適だった。

  • 日常で言われる「論理的」という言葉と、論理学が取り扱う「論理」との違い
  • そもそも演繹とはどのような営みを指すのか
  • 論理学で重要視される言葉は何か、どのようなアプローチでそれらの論理学上の意味を規定するのか

とはいえ、条件法(「ならば」)、全称と存在(「すべて」と「存在する」)、意味論と公理系、完全性と健全性の検証など、一回通読しただけでは難しいところも少なくはなかった。
本書ほど親切に説明してくれていても尚難しい、と考えると少し身震いがする。
だがまあ、それこそソクラテスマインドで、ちょっとずつでも親しんでいければと思う。


変幻自在な自己受容

3冊目。森絵都の『気分上々』。

気分上々 (角川文庫)

気分上々 (角川文庫)

老若男女さまざまな人々の日常を描いた短編集。
こうして簡素に紹介してしまうとだいぶ味気無さが際立つが、個人的には著者の作品の中でも指折りで好きだった。
『風に舞い上がるビニールシート』『出会いなおし』と続けて読んできて思ったが、森絵都の文章の良さがより濃く出るのは短編集かもしれない。

本作の各短編は、『東の果つるところ』(生まれてくる子どもへの置手紙という体裁)を除いてすべて一人称で書かれている。
前述したとおり、本作の主人公の人物像は性別年代から性格まで様々なのだが、どの文体にも全く違和感がなく、心情の流れを読み取るのも非常に快適だった。
これは地味にすごいことな気がする。
文章が人間の頭の中から湧き出るものである以上、作家固有の癖は多かれ少なかれ反映されるはずだが、この人の文章はその点、良い意味で透明だ。
自分の色眼鏡で屈折しているだけで、案外色味があるのかもしれないが、淡色なのは確かじゃなかろうかと思う。

語り口のカメレオンっぷりと合わせて好きだったのが、「呪縛や囚われをポジティブに受け容れる」という通底したテーマが、時に明瞭に、時にほのめかして描写されるところだ。
こう表現すると自己啓発っぽく読み取れてしまいそうでめちゃくちゃ嫌なんだが、読んでいてその類の悪臭を感じることは無いので安心してほしい。
読者に思想を伝えるというより、むしろ、平凡な登場人物たちの葛藤が解像度高く描かれていることで、作者の抱く人間への祈り・親心・老婆心のようなものを、読者が自然と感じられる、という構造になっている。
そのあたりの距離感の妙もとても巧みだ。

これを、前述の語り口の多彩さと合わせて考えると、多様な人の内心に寄り添った描写ができるという意味で、「この人根が優しいんだろうな」だなんて勝手に思ってしまう。
強いて作家性を言語化するなら、善性という言葉になるのかも(笑)

だいぶ抽象的な褒めちぎりになってしまった。
個人的には9つの短編のうち、下の3つが好きだった。

  • 『彼女の彼の特別な日 彼の彼女の特別な日』(元カレの結婚式の夜に泥酔するOLの話)
  • 『17レボリューション』(失恋を機に"自分革命"のために親友と絶交を試みる女子高生の話)
  • 『気分上々』(父親の遺言を気にしてしまう男子中学生の話)

どれも、話の行く先を楽しみに読み進められ、どことなくコミカルながらも著者の優しさを嫌味なく感じられる。
もちろん他もどれも面白い。手放しでお勧めできる小説だった。

精神鏡

自分はマルチタスクができない人間なので、本を同時並行で読むというのも出来ないものだと食わず嫌いしていた。
しかしこうしてやってみると、どんなタイプの本に集中できるのか、つまりどんな感情/知識をその時の自分が欲しているのかが、自覚している以上に顕著に表れて面白い。プラトンには申し訳ないが(笑)

人の本棚を見てみたい、というのは特定のタイプの人間には共通の興味だと思う。
それを踏まえて、自分の読んできた本とそれらへの感想が、時系列で手軽に一覧化できたらテンション上がるな、と、今回数冊を同時に読んでより強く思った。

まあ、本棚で人格の一部でも分かった気になるのはだいぶ軽率だとは思うが、分かろうとしている姿勢については悪くないんじゃなかろうか。
……単に予防線を張っただけなんだが、この結びはなんかソクラテスっぽくてウケる。案外印象深かったのか?