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臆病で尊大な読書日誌

大学生の読書感想文

アウェー感

住めば都、郷に入れば郷に従え、朱に交われば赤くなる、等々、環境への順応に言及することわざは数多くある。

田舎だなんだと悪態を吐きながらも、実家、大学、職場のある街に安心感を覚えるようになっていたなんて経験はよくある話だ。

裏から言えば。

駅に降り立って、妙に浮ついて地に足のつかない感覚。ラーメンに漂う油みたいに、どう足掻いても溶け込みきれない感覚。もっと悪い時には純粋で本能的な不安感。

こんな感覚に襲われる経験も、一般的に少なくはないはずだ。

スポーツ観戦のアウェー状態とはまた別種だろう。それはサポーター(場合によってはフーリガン)達による人為的なモノだ。

しかし、街の空気に馴染めない状態。その原因は自分の内側が直接生み出す違和感だ。不慣れで見知らぬ環境への不安は、場所からではなく自分の心から発される。

下手な比喩まで使ってテメェは何を当たり前のことをほざきやがって、と罵声が聞こえるが、勘弁願いたい。

僕が言及したいのは、その感覚そのものというより、街毎に相性というか、色というか、順応しやすさみたいなモノが確固としてあるのではないか、という疑問だ。

都会だとか田舎だとか観光地だとか、その程度のレベルの色の違いであれば、誰だって当たり前に感じられるだろうし、むしろなんの違和感も覚えないのはかなりのツワモノだと言える。

僕は就活の佳境を迎えるまで、都会は結局どこも変わらないものだと考えていた。「東京は結局博多や梅田や名古屋や仙台や札幌が沢山繋がってるような街だ」なんて話はよく耳にするし、僕も漠然とそう思っていた。

ただ、最近そうでもないなと思ったきっかけが、上述したような違和感だということだ。

ここからはもう完全に、ポエムすら脱してただの分かりにくい主観に陥るのだが、訪れる頻度や距離感はほぼ変わらないのに、八重洲や銀座なんかと比べて丸の内に馴染めない。

色で言うなら、丸の内は清潔な白、八重洲は青か薄紫、銀座はグレー。

外資系企業もいるし、日系大手もいるし、商業ビルもあるし、どこも都市化の度合いはそう違わない気がするのにこのような感覚を覚えるのはなぜだろうか。それともこれは、所詮若輩の就活生の視点に過ぎず、この辺の企業勤めが決まればどこも同じに見えてくるのだろうか。

なにぶん、僕は土地にこだわりなく生きてきたタチの人間なので、この感覚に答えを出すのは難しそうである。投げっぱなしではあるが筆を置きたい。やはりアウトプットの場があるとは良いもので、思考を出力しつづけていたら気持ちが落ち着いてきた。

朝っぱらからだらだらと書き連ね最終的に筆を投げておきながら、つまり何が言いたかったのかというと。

これから、丸の内で行われる人事面接が、果てしなく、ダルい。

おはようございます。

不感症

「臥薪嘗胆し過ぎて味覚障害」なんて歌詞が某バンドに有るらしいが、最近の心境はそんな感じだ。

年明け前までは、主にコンプレックスを原動力に就活を続けてきた。

自分より早く内定を得ている学生への焦り、お祈りメール(同情するなら選考通して)への落胆といった黒いモヤを、牛みたいに消化・反芻することで、なんとか心の安定を保てていたと思う。

おかげさまで、最近やっとマイナス感情からふっきれることができた気がする。

しかしある時気付いてしまった。

モチベーションが、湧かない。

反骨精神、コンプレックス、負けん気、何くそ根性、嫉妬、焦り、怒り、殺意。

何でもいいが、これまでの人生で確かに一種の原動力として成立していた感情を無理矢理ぼかしきってしまったためか、前を向こうという気持ちまでも薄れ切ってしまったみたいだ。

思えばこれまでも、小学校・中学校で運動音痴に気付くと同時にテストが得意だと分かった時、高校ラグビーで練習についていけなくなりながらも、自分より上手い同期たちが先に辞めていくのを見た時、大学のサークルで立場を失った時などなど、そこで自らを奮起させたのは上のような感情だった。

就活という常に自省を求められる状態で、無理に理性と感情をバトらせた結果の歪な精神状態なのか、それとも、そもそも反骨精神を保ち続けるエネルギーが欠落していたのか。

個人的には、後者の色が強い感じだ。

肥大した自意識と20年間向き合い続け、ある意味涅槃に至ったと言ってもいいのかもしれない。

まさしく"臥薪嘗胆しすぎて味覚障害"。

だがそれでも、なんやかんや日本に生まれ大学を出ようとしている以上、今後の食い扶持とコミュニティをもぎ取る努力は必然求められるのだろう。

現状維持は衰退の始まり、なんて格言があるが、何とも世知辛い情勢だ。生きようとも死のうともしなければ向かうは結局破滅である。

悟りでは飯は食えない。

家族は健在、奨学金も背負ってる。

そんな凡人が平凡に生きるためにはここで非凡な努力が必要だ。

んなこたわかっているし、へっぴり腰だろうと顔だけでも前を向く。

そこへ颯爽と「益々のご健勝とご活躍をお祈り申し上げます」……。

ままならねえな。

三島由紀夫『不道徳教育講座』を読みました

 お久しぶりです。

 就活やらなんやらで週一投稿が厳しくなってきましたが、ES入力フォームに中指立てながら、だらだらと続けていく腹づもりです。Webライターインターンとかもらえないかな?

 それにしても最近、アウトサイダー人間に傾いている気がします。書評ブログなんて始めちゃったからでしょうか?小説家の文章の深みには恐れ入りますね。自分のようなハンパ者はいとも簡単に溺れてしまいそうです。

 というわけで、今回は文豪・三島由紀夫の風刺エッセイ集『不道徳教育講座』の紹介記事で行きたいと思います。

 

 この本で著者は、一般的な道徳良識を滑稽に皮肉り、彼の人間観でもって「知らない男とでも酒場に行くべし」「女から金を搾取すべし」「沢山の悪徳を持て」「罪は人に擦り付けるべし」などなど超インモラルな道徳論を展開します。インモラルな道徳論って清純派AV女優みたいでアレですね。

 ともあれ、著者自身の豊富な知識、観察力に裏打ちされたパワフルな文章でもって繰り出される“不道徳”は、ウィットに富んでいて楽しく読み進めることができます。

 また、こういうタイプの文章は冗談だとわかって読むからこそ、逆説的に作者の主張を読み取れる構成になっているわけですが、たまに「三島由紀夫は本気でこう考えていたのでは?」と思ってしまうような項が紛れ込んでいるのも面白い。読者にそう思わせてしまうほどの文章の説得力も、さすが文豪だなという感じです。

 今回は、2つほど印象に残った項を挙げて紹介してこうと思います。

1.いわゆる「よろめき」について

 「よろめき」、つまり浮気について述べた項です。最初に三宅艷子という人の、「女は大げさな肉体関係によらずとも、浮気を結構楽しめるものだ。夫の居ぬ間にお手伝いの男と笑い合うのだって、それは夫婦の関係を何ら害さないが、確かに精神的浮気なのだ」という趣旨の文を引っ張ってきた後、男と女の“浮気観”について著者の考えを語ります。

 著者曰く、男と女の最大の性差は、肉体と精神を分離して考えるか否か、という点です。男はこの二者を区別して意識するが女はそうではない。この差によって、女性の浮気は男の浮気よりも複雑になる。お手伝いの男と談笑するのも、会社の同僚と不倫して行くとこまで行ってしまうのも、つまりは程度問題であり、本質的には変わらない、といいます。よって、男の「体だけの関係だったんだ」という弁解は女性には通用しない、と著者は述べます笑

 この項は風刺というより評論って感じですが、いつの時代も浮気はネタになるんだなと面白みを感じると同時に、この論が正しいかどうかは別として(笑)、著者の文章力に舌を巻きます。

2.死後に悪口を言うべし

 こちらは見出しからインモラルですね笑

 著者はここでは、日米の政治家などを例に挙げ、生きているうちにさんざん罵倒された人間が、いざ亡くなれば周囲に褒め称えられるという現象について疑問を呈します。

 そして、そのような周囲の人間たちの心理を

「相手が元気なら、個人的な嫉妬や怨恨でも正当な怒りに聞こえるが、相手がくたばってしまうと正当な怒りでもみみっちいものに聞こえてしまい、そんなことで評判を下げるのもアホらしいから褒めておくほうが無難である」

「我々は結局死者のことをさっさと忘れたいのであり、それがにくまれていた人間なら尚更だ。そのためには褒めちぎるに限る」

というふうに考えているのだと断じてしまいます。

 著者は、この心理に対して、死者への悪口は死者の思い出をいつまでも周囲が温めておけるという点で、むしろ人間的であるといいます笑

 言動の一貫性を保つために死者に悪口を言え、というのではなく、悪口を言うことでその人を忘れないことが道徳的だから悪口を言え、と言ってのける発想の転換はすごいですね。

 

 久々で疲れたのでこのへんで終わりにします。

 今回挙げた2個は、わりとそのまま三島由紀夫の思想だったのではないかな?とぼくは思います。文学史には疎いので確証は持てませんが。そろそろ古典も読むべきでしょうかね。

中村文則『悪と仮面のルール』を読みました

"……その人間が幸福だったか不幸だったかは、その人間が寿命とか病気とかで死ぬ寸前まで、わからないじゃないか。……何かの温度がさ、過去であれこれからの未来であれ、その人間の長い人生のベクトルの線のどこかに、いくつかあるはずだよ。"(本文より)

最近サボってましたが、久々の読書感想文いきたいと思います。今回読んだのは中村文則の『悪と仮面のルール』という小説です。

この人は、一般にはあまり知名度がないかも知れません。かく言うぼくもピース又吉のエッセイを読んではじめて名前を知りました。

しかしこの人、芥川賞大江健三郎賞を受賞しており、著作は英訳されウォールストリートジャーナルでも年度ベスト10入りを果たしているかなりの実力派です。

ぼく自身、ここ最近はこの人の小説を貪るように読んでおり、そろそろ文庫化されている分はコンプリートしそうです。

この記事ではそんな彼の小説の魅力を少しでもお伝えできればと思います。

物語は、悪辣外道な父親の鬼っ子として育てられた主人公文宏が、愛する女性、香織を守るために父親の殺害を決行するもそのトラウマに苛まれ、結局香織のもとから離れてしまうところから始まります。

その後大人になった文宏は、顔を変え別人として生活しながらも、香織の幸せだけを願い行動し続けますが、ある日、香織の周囲に、かつての父を想起させるような悪意の影が見え隠れするのでした。

以上がざっくりとした大筋です。

この本ですが、サスペンス的な緊張感あるストーリーと、作者の持ち味である、人間性の暗部に対する克明な描写が非常に良いバランスで噛み合っており、さながら芥川賞直木賞のハイブリッドというような面白さでした。

ぼくが以前作者のインタビューを読んだ際も、彼は「小説は文体か物語かの二元論で語られがちだが、どちらも両立することがベストだろう」という風に語っており、まさに作品で以って信条を体現していると思います。

今回は、この小説が構成と描写の両面で優れているということをお伝えしたいという意図で、主に文宏と香織の関係の趨勢を軸に、ぼくの気に入ったところを書きたいと思います。

この2人ですが、出会いは幼少期、「文宏に愛を覚えさせた後に香織を辱めてそれを損ない、絶望を与えることで『邪』としての教育を行う」という文宏の父の企みに基づいています。父は戯れにその企みの概要を文宏に伝え、それを防ぐために文宏は父の殺害を決行するのですが、その経験は文宏の内面に不治の病を宿します。

眼前の巨悪を殺さなければ、唯一愛した人を守ることは叶わない。殺人には、本能的な同種殺害に対する嫌悪感や、社会的倫理による呵責が不可避に伴いますが、文宏のような状態に陥った時に人間はどう振る舞えばいいのか?

この大きなジレンマに文宏は作中通して向き合うことになるわけですが、作者はこれを通じて「なぜ人を殺してはいけないのか?」という哲学的難問を読者に提示します。起承転結の起の時点でスーパーヘビー級です。文宏は、父のような邪の道に堕ちた自分のまま香織に向き合うことができず、自己を消そうとして整形を決行するわけです。顔を変える前の文宏と香織のやり取りは悲痛の一言に尽きますが、それゆえ読者にページをめくる手を止めさせません。

父と同じ穴のむじなと化し、どこか父の面影を感じさせるようになった文宏に対して、香織は自分の愛は健在だと訴えますが、文宏が香織を抱こうとすると彼女の体は強張ってしまう。もはや彼女は自分の愛を純粋に受け容れることができない。他人の悪辣に巻き込まれたに過ぎないが、それゆえにどうしようもない2人の苦悩を推し量れます。あまりに痛ましくて嘆息してしまうシーンです。

殺人という大きなテーマに基づく葛藤と、それを読者も味わわざるを得ないようなストーリーの構成がとても見事だと思います。

この辺の個人的に好きな部分で、 "父を殺したのはある種の正当防衛で、仕方がなかったと言う人も、いるかもしれないと思った。だが、強烈な幸福とあの激しい地獄が通過した僕の未熟な精神は、その一つ一つを整理し、ときほぐすことができなかった。内部に沈殿し、年齢とともにそれはさらに歪み、生きる上での重要な何かを、これからも損ない続けるのだと。しかし、僕の内部が不自然に静かだったのを、よく覚えている。" という文章があります。

もう取り返しがつかないということを受け止めながら、心が奇妙に凪のようになる感覚ってありませんかね?流石にぼくに殺人経験はありませんが、この非常に丁寧かつ淡々とした文体には、どこか"そういう経験"を追体験させるかのような魔力を感じました。

しかし、ただの陰鬱な悲恋で終わらないのがこの物語の良さだと思います。

かなり端折りますが、クライマックスで顔を変え別人として生きる文宏(「文宏の知り合い」と称して話を切り出す時の痛切さには胸を打たれます)と、大人になった香織は言葉を交わします。人を殺め、もはや正体を明かすことのできない文宏は、しかし、かつての想い出を無かったことにはできず、"文宏"は香織の存在が唯一生きる支えになっていたと伝え、この束の間、確かに心を交わすのです。

もちろん円満ハッピーエンドではありませんが、だからこそ、文宏と香織がその瞬間に至るまでに辿ってきた足跡が想起され、読者の感情を強く揺さぶります。2人の会話シーンを読んでいる時、恥ずかしながら久々に小説で涙ぐみました。

この辺で好きな文章だと、 "(前略)あなたのような人がいたから、こんな世界でも、少しは肯定できたって。あなたとの記憶が詰まった自分の意識を、消したくないって。あの日々は確かにあったって。いつまでも自分のままでいたいって。だからーー」 僕の声は、震えて仕方がなかった。" とかですかね。

ここまでの描写が重苦しく血に塗れ救いがなかったからこそ、この辺まで通しで読むと、思わず文宏の想いをトレースしてしまいます。このフレーズは、最終盤の文宏の語りと併せて、「くそったれで理不尽な世界だが、それでも……」という、実存主義的な力強さを感じさせられました。

と、こんなところでしょうか。

ちょっとでも文体の凄みや構成の美しさを感じていただけてたら幸いですが、中盤の部分をかなり端折りましたし、ぼくの拙筆ではこの作者の凄みを伝えきることはやはり難しいので、ぜひ皆さんが手に取って読むことを強くオススメします。

ご一読あれ。

往年の名作、映画『レオン』のネタバレ感想

「ねえ、大人になっても人生はつらい?」

インターンカリキュラムがほぼ完全に終了し、えげつない解放感を一身に浴びてAmazonプライムで映画を見ました。

今回見たのは『レオン』。もともと名前は知ってたんですが、twitterで激推しされてて面白そうやなと思い視聴決定。

関係ないですけど、ぼくのような人種にとっては、twitterは良作おすすめツールとして非常にハイスペックですね。FBの顔も知らない知り合いかも?のリコメンドよりはだいぶ実用的です。

さて、この映画のあらすじです。

悪徳麻薬捜査官に一家を殺されてしまった少女マチルダが、隣人だった殺し屋レオンの元に助けを求めて転がり込みます。危機が去り、一度は追い出そうとするレオンでしたが、マチルダに「このまま放り出されたら結局奴らに殺される」と懇願され、渋々ながら彼女を受け入れます。そこから、レオンがマチルダに復讐のための殺しの技術を教え、マチルダはレオンに読み書きを教える、2人の奇妙な共同生活が始まるのでした。

いわゆる、「ひょんなことから……」系のストーリーです。

ほぼプライムの紹介文丸パクリですがまあいいでしょう。

個人的に感じたこの映画の魅力は以下の3点です。

1.キャストの演技力

2.レオンとマチルダの愛情

3.演出

1.キャストの演技力

この映画、だいたいメインキャストは主人公2人とレオンに仕事を斡旋するオッさん、悪徳捜査官の4人ほどになるのですが、彼らが皆とてもいい演技をします。

レオン役のジャン・レノですが、観葉植物と牛乳をこよなく愛する中年オヤジと、冷徹に仕事をこなす"掃除屋"というレオンの両面を違和感なく演じきっています。

ぼくがいいなと思ったシーンは、初めて人を殺した時のことをマチルダに語るシーンです。その時の殺しをずっと心に留めているレオンからは悲壮な人間味が漂っています。

総じて創作における「殺し屋」というキャラクター像の王道をしっかり押さえてるなーと感じましたね。映画史には詳しくありませんが、もしかしたらこういうキャラクター像の先駆けがレオンなのかもしれませんね。

マチルダ役のナタリー・ポートマンも非常に可愛らしく、それでいてシリアスにも耐えうるいい演技でした。煙草が異常に似合ってて、白人の顔立ちはずりいなーと思いました。

個人的には、捜査官役もまさに怪演といった感じで、とてもツボな悪役でした。

麻薬取締のためならチンピラ紛いの部下を使って殺しも辞さない。捜査官のくせに仕事の前には明らかに薬をキメている。ツッコミどころ満載のヒールでありながら、何をやらかすか分からない狂気が演技から滲み出ていました。

2.レオンとマチルダの愛情

2人は物語が進むにつれて、恋愛とも親子愛とも師弟愛ともつかないような、なんとも表現しがたいニュアンスの愛情を育みます。

特に好きなところで、上述の初殺しのエピソードから繋がるシーンでレオンがマチルダに腕枕をして寝るシーンがあるのですが、職業柄熟睡ができない性格だと再三描写されてきたレオンが、朝起きた時にマチルダに「いびきをかいていた」と伝えられるシーンがあります。その時のレオンの驚きまで含めて、2人の絆を感じられるとても和やかな場面でした。

ゆえに、ラストが辛いのですが……

3.演出

これも、劇中通して奇をてらわない王道を抑えたタイプの演出です。ぼくは伊坂幸太郎の小説の伏線回収を連想しました。

好きなところだと、最終的にレオンは捜査官に撃たれてしまうのですが、今際の際に捜査官に対して、「マチルダからのプレゼントだ」と自らの体に巻きつけた手榴弾のピンを握らせる演出ですかね。これ、手榴弾を使った不意打ちの殺しの手口を、劇中盤でレオンはマチルダに教えてるんですよ。その辺まで含めてニクイ演出だなと思いました。

あとはエピローグで、マチルダが自分の通い始めた学校の校庭にレオンの観葉植物を植え替える演出なんかも、ありがちながらしっかりツボを押さえていると思います。

「ゆくゆくは、しっかりと大地に根を張って生きて行きたい」と語っていたレオンの望みを、最後の最後にマチルダがある意味叶えてやるわけです。

これらの、作中の何気ないディテールがクライマックスに関わってくるという手法が伊坂感の所以ですかね。作品的には順番逆ですけど笑

1996年の作品ですが、しっかりとストーリー展開の王道を踏まえており、主人公たちの関係もハートフルでいい映画でした。

機会があれば是非。

15日目?

晴れ。しかし寒い。

さて、インターン中に38度超えの高熱を発症し、かなりモチベーションが削がれてしまった。

気持ちをバイト感覚にシフトして、良くも悪くも結果に執着せずに滞りなく終えたいと思う。

帰宅後、とりあえず興味の持てそうな企業にプレエントリーを繰り返す。

中には任意でブログを教えろなんて企業もあり、一瞬このブログの存在を思い出しURL貼ったろーかと考えたが、記事での言葉遣いが悪すぎて一瞬にとどまった。

最近は無い内定でもいいかな?と思い始めてきた。危ない傾向だ。

躁鬱の振れ幅はあるが、最近めっきり鬱、虚無、無気力のガワに偏っている気がする。

4月から大学が始まればまた少しはマシになるだろうか。

伊藤計劃の『ハーモニー』を読みました

もしかしたら、誰もがこのゲームから降りたがっていて、けれど世間の空気というやつがあまりに手ごわい関門なので、降りることを諦めてしまっているのではないだろうか。

人は見たいものしか見ない、なんて言葉は様々な作品でそれっぽく意味深に語られますが、それが正しいなら、就活に中指を立てているぼくがこのフレーズを思わず引用してしまうのも、自明で仕方ないことでしょう。

 

さて、今日は某ソフトウェア会社のインターン休日で、天気は珍しく曇天模様。朝方には雨も降ったのか、不快でない程度の湿り気。

休日とは言っても、午前中にSkype面接を一件こなしてすでに疲労度はなかなかのもの。

気分転換も兼ねて、毎度のごとく駅へ出向きカフェに腰をおろしました。

 

休日恒例となった一冊読破。今回自分が選んだのは、夭逝のSF作家伊藤計劃の『ハーモニー』です。高校時代に読んだのですが、この間の『虐殺器官』劇場版を見て再び本棚から取り出しました。ちなみに、冒頭のフレーズは作中中盤の主人公の独白です。

 

この作品は虐殺器官と世界観を共有しており、軽く紹介すると、『虐殺器官』のクライマックスに端を発した「大災禍」と呼ばれる混沌の反動で築き上げられた、徹底的な福祉厚生管理社会を舞台としています。

成人になれば、誰もがWatchMe(体内状況監視ソフト)と医療分子(病原排除用ナノマシン)を体に内蔵することを義務付けられ、病気がすっかり駆逐された世界。もう二度と惨状を経験しないために、隣人愛、公共精神、そして健康意識が幼少期から徹底的に教育され、誰もが他人に優しいユートピア。この社会でタバコや酒をやろうもんなら、同調圧力によって社会的信用は失墜してしまいます。

 

そして物語は、そんな社会に”真綿で首を締められるような”息苦しさを感じた3人の少女が、自死を企むところから始まります。

計画の首謀者ミァハは、失敗してしまった主人公トァンと友人キァンを残して一人この世を去りました。

大人になり、なんの因果かWHO(この世界では馬鹿でかい権力を持つ)の官僚として働くトァン。ある日、キァンとランチをしていたその時に、目の前でキァンがテーブルナイフによって自殺を決行します。言葉を失ったトァンですが、上長からの緊急連絡によって、これが世界中で同時多発した集団自殺事件であることが告げられます。

キァンの今際の一言から、トァンは死んだはずのミァハが事件に関与しているのではとの疑念を抱き、捜査を進めていくのですが……

 

 

といったところがあらすじです。毎度長い。

 

まず言及したいのが作品の世界観です。

管理を極めたユートピアディストピアを舞台にした作品は数多くありますが、医療、健康にフォーカスしたものは珍しい気がします。

巻末の解説曰く、伊藤氏が入院中に執筆されたというところが舞台設定にも大きく関わっているようです。究極に平和なことへのストレス、というような表現をされていました。

 

こういうジャンルではありがちなテーマではあるのですが、そうした典型的な枠におさまらない、健全を極めた結果の不健全さやおぞましさみたいなものがこの小説では生々しく伝わってきます。

もしくは、ある種の滑稽さと言ってしまってもいいかもしれません。

実際、私たちは異なる価値観に直面したとき、理解できないことへの不安や恐怖を感じるのみならず、どうにもバカバカしくおかしく思えてしまうことがあると思います。そのあたりの微妙なニュアンスも、この作品ではトァンのシニカルな目線を通していい塩梅で体験できます。

 

それますが、この時勢に改めて読むと、タバコのあたりなどはリアリティをありありと感じます。五輪に伴う飲食店全面禁煙、流石に勘弁してくれませんかね?笑

高額納税者たちのために、せめてもう少し公衆喫煙所を多く設けてはくれないかと思う毎日です。

 

戻しましょう。ぼくのニコ中度合いなんてもんの需要は極低です。

 

大胆かつリアルな世界観も魅力的ですが、『ハーモニー』の主題は、人間の意識とは?ヒトを人たらしめるものとはなんなのか?というところにあります。

作中ではこう語られます。

ある状況において必要だった形質も、喉元すぎれば不要になる。その場その場で必要になった遺伝子の集合。人間のゲノムは場当たりの継ぎ接ぎで出来ている。(中略)

我々人類が獲得した意識なるこの奇妙な形質を、とりたてて有り難がり、神棚に祀る必要がどこにあろう。(中略)

社会的動物である人間にとって、感情や意識という機能を必要とする環境が、いつの時点でかとっくに過ぎ去っていたら。我々が糖尿病を治療するように、感情や意識を「治療」して脳の機能から消し去ってしまうことに何の躊躇があろうか。

意識の存在問題がどう物語本筋と絡むかはぜひ読んで確かめていただきたいです。

伊藤氏はこれらの表現によって、

「人間が動物的進化の過程で獲得した意識や感情は、生きていくためにそれを必要としないほどにガチガチのシステムを社会が作り上げてしまったら、”無駄な葛藤や悩みをうむ原因”だとかなんとか言って究極的に抹消されるのでは?」

と過激な問題提起をしているのだと思います。

また、それによって逆説的に、本当にヒトを人たらしめるものって何なんだろうね?と読者に問いかけているような気がします。

何なんでしょうか。答えは出せませんね。

 

 

色々語ってきましたが、ぼくは、伊藤氏の作品の一番の魅力は、こうした重厚な世界観やテーマを扱っていながらそれをわかりやすく伝える文章力だと思っています。

皮肉っぽくてロジカルでありながら、フランクで親しみやすさを感じる文体で、山場ではここぞとばかりに文学的でエモーショナルな表現が畳み掛けられます。

『ハーモニー』のクライマックスシーンでも、一度読んだことがあってもなお、ページをめくるたびに現れる言葉に目が惹きつけられて息が詰まってしまいました。

 

こういう、バランスよく、かつ要所で突き抜けるようなエッジの効いた文章を書けるようになりたいものです。

普通のSFとして読むもよし、哲学的に読むもよしです。よろしければぜひ読んでみてください。

 

といったところで、今回は締めようかと思います。

明日も八時おきです。

この浮世離れと俗世の往復生活も折り返し地点ですし、また頑張っていきましょう。