臆病で尊大な読書日誌

読書感想文 時々アマチュア哲学

最高最悪の映画『22年目の告白 -私が殺人犯です-』を観ました

おはようございます。今日も面接前の暇つぶしに、御苑前のファミレスからお届けしております。

内定は未だ出ません。誰かwebライターとかのオファー下さい。


笑えない冗談はさておき、久々にパワーがある映画を見たので感想書きたいと思います。核心部分のネタバレ無しで、見た当時のガチ感情を綴っていくつもりなので、普段よりは文章の精度とか落ちると思いますが、その分何も考えずに流し読みできると思います。


さて、今回は藤原竜也伊藤英明のW主演『22年目の告白 -私が殺人犯です-』を見ました。ジャンル分けするなら社会派サスペンスってとこでしょうか。


過去に5人もの連続殺人を遂げていながら、刑訴法の改正時期の関係でまんまと時効を手にしてしまった男が、事件についての「告白本」を出版し、世間を大きく騒がせるところから話が始まります。

"殺人犯"の行動は記者会見に始まり、告白本のサイン会、youtubeでのインタビュー、被害者遺族訪問とやりたい放題。告白本も爆売れベストセラー入り、その甘いマスク(藤原竜也)から女性ファンもみるみる急増。遺族たちはもちろんブチギレ。

そして、過去に事件を担当しながらも犯人を検挙出来なかった刑事は、沸き立つ世間の中、もはや法では裁けなくなったこの犯人に対してどう向き合うのか?


あらすじはざっくりこんな感じです。この時点で悪趣味ですね笑  

司法の守備範囲を超えた社会悪、その話題性にしか目が向かない愚かな大衆、そして、死刑に値する罪を犯していながら絶対安全を自覚し、傍若無人に振る舞う犯人。徹夜明けにラーメン二郎を提供されるようなヘビーさです。観客が「真面目」であればあるほど、この構造は醜悪に映るでしょう。ぼくはこういうの好きです笑

しかし、鉄板をぶん殴ると、拳の痛みと引き換えにいい音が響くものです。社会の穴を的確にエグって観客の正義感に鈍痛を食らわすことで、この映画の問題意識はダイレクトに届いてきます。


言ってしまえばありふれた「裁けない悪」というテーマですが、恋愛モノで「認められない恋」が必ず盛り上がるのと同じで、倫理と感情の葛藤は決して陳腐化しません。パワーは健在です。


また、テーマのパワーを最大限引き出すための演出もきめ細かく工夫されてます。

刑事や遺族たちが当時を思い出す際のフラッシュバック、記者会見の際のおぞましくも鮮烈な映像投影などなど、焦燥と不快を掻き立てる程よい音響と併せて見ていて飽きません。

もちろん演技も申し分ない。こういう作品は被害者遺族の演技にフラストレーションを晴らす機能が求められがちですが、役者は皆、殺意満タン嘆き爆発といった正統派演技を堂々と見せつけてくれます。藤原竜也のダークヒーローっぷりも良いです。

巷では、「藤原竜也主演作品はハズレ無し説」が囁かれているようですが、なんだか納得してしまいました。


さて、ここまで長々とあらすじでも推測できる範囲のストーリーにしか言及していないのですが、実はコレ、ただの問題提起作品ではありません。純粋なエンタメとしても、非常に楽しませてくれます。

その要素を詳細に語るとネタバレなので控えますが、とにかく後半の展開が怒濤。物語は途中から全く異なる色を見せます。

そこからはかなりケレン味が強くなるのですが、多少のアラは吹き飛ばして観客を引っ張っていきます。そういう意味でもパワフルな映画です。

もちろん、展開が加速した後にも悪趣味要素は健在笑  個人的にはラスト2シーンで制作者たちの悪意にどっぷり浸ることが出来ました。シーン自体の意外性は薄いのですが、しっかり王道を押さえてます。

ネタバレを控えつつ後半の展開のキーワードを考えるなら、「因果は巡る」って感じになるでしょうか。ぜひとも劇場でその真価を確かめていただきたいです。



そんなわけで、この辺で終わりにしたいと思います。

直近の映画の中では激推しなので、ぜひ見ていただきたい。『怒り』とか好きな人にはハマると思います。

それでは。


夏目漱石『私の個人主義』を読みました

就活の持ち駒が欠乏している状況ですが、構わず読書に浸っております。しゃーないっすね。夜行バス疲れたし。結局人生いかに(公共の福祉の範囲で)楽しむかですよ。他人との比較を辞めて、自分が充実できるコトを見出せてれば、多少内定が遅れたって大した問題ではないでしょう。そんないい意味での自己本位さ、個人主義な生き方を目指していければいいと思います。

というわけで、今回は夏目漱石の講演集『私の個人主義』について短めに書きたいと思います。自然な導入がキマりました。やったぜ。

この本は、漱石晩年の演壇での講演5本を活字に起こしてまとめたものです。『道楽と職業』『現代日本の開化』『中味と形式』『文芸と道徳』『私の個人主義』の5講演からなります。現代〜は国語の教科書にも載ってた覚えがありますね。

さて、ここでは表題作からちょいちょい引用しつつ感想考察みたいなスタイルでいこうと思うのですが、その前に概括をひとつ。

全体として感想を書くなら、「古典の古典たりえる凄さがわかった」って感じです。より砕いて言うなら、ここで書かれてる漱石の思想は現代にも普遍的に通じるんです。時代の淘汰に耐えうる著作はやっぱりそれなりの強靭さがあるんでしょうね。それを実感したのが本作でした。

まあ、よりうがった見方をすれば、人間や社会の懸念点、問題点なんぞは100年経っても変わんねえってことでしょうが笑

そう考えると西洋哲学ってスゴイですよね。なんせ、本質的には全然変わらない人間っていう材料を元に、あんだけコツコツと学問体系を積み重ねてきたワケですから。そんだけの段階的発展を可能にした触媒が、神とか真理とかの西洋宗教だってのを考えると、神学にも興味を惹かれますね。(まあ哲学の場合、時代に"最適化"した"善い"生き方を探るという姿勢が発展を後押ししたのはあるでしょうが)

閑話休題です。内容に入りましょう。以下引用。

"私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。彼ら何者ぞやと気概が出ました。今まで茫然と自失していた私に、ここに立って、この道からこう行かなければならないと指図をしてくれたものは実にこの自己本位の四字なのであります。"

以上引用。学習院大学の学生に講演した表題作の一節です。漱石は東大を出て何度か教職に就いたのち、イギリス留学中に学者としてのアイデンティティに悩みます。時代背景もあってか西洋の思想がとりあえず全肯定されるような風潮にあって、借り物の、西洋風の付け焼き刃の知識だけで持て囃されることに物足りなさを感じていたようです。そこで彼は、結局この不安を解消するためには、一から自分にとっての文学の概念を確立するしかないと気づいたと言います。ちなみに上記に出てくる「彼ら」とは西洋人を指します。

また漱石は、これは学問や芸術に留まるところではなく、生き方全体の問題なのだと言います。以下引用。

"もし貴方がたのうちで既に自力で切り開いた道を持っている方は例外であり、また他の後に従って、それで満足して、在来の古い道を進んで行く人も悪いとは決して申しませんが、(自己に安心と自信がしっかり附随しているならば、)しかしもしそうでないとしたならば、どうしても、一つ自分のツルハシで掘り当てるところまで進んで行かなくっては行けないでしょう。

行けないというのは、もし掘り当てることが出来なかったなら、その人は生涯不愉快で、始終中腰になって世の中にまごまごしていなければならないからです。"

以上引用。こうして自分の道を見つけて尊重し、他人のその姿勢も決して阻まないこと。それが「私の個人主義」だ、とするのがこの章での主旨です。

説教じみたことを書く気は全くありませんが、この部分を読んだ時、今の日本において個人主義を確立できてる人間はどれくらいいるんだろうなと素朴に疑いを抱いてしまいました。漱石の時代は西洋コンプバリバリの日本ですが、この問題提起こそまさに現代に通用するんじゃないでしょうかね。

ぼく自身、自己追求はおろか他者への寛容さもまだまだ足りないところだと自認しています。

仕事でも道楽でも家庭でも何でも、自分の生きる道を確立して、「強さゆえの優しさ」を体現できるようになりたいものです。

ベンチャー企業適性とは何か

振り返ればもう1年以上も就活していることになる。学部3年のこの時期から東京通いしていたと考えると、親と学生支援機構とバイト先に頭が下がる思いだ。

我ながら、日頃から傲慢で恩知らずな人間だと自負しているところではあるが、ぼくの生活にカネを出してくれる主体が3つもあるのは素朴にありがたい。

今日は某急成長IT企業の人事と面談してきたワケだが、結論としては思想の不一致による選考辞退という形になった。妥当な結果ではあったが、色々考える契機になったので記事にあげる。

当該面談では、マッチングを測るという名目で自己の志向性と会社の志向性を話し合った。まあどこの民間企業でもやっている面接スタイルだ。

ぼくの"現状の就活の軸"はざっくり以下の通り。

1.事業領域のポテンシャル(成長性、先進性)

2.年功序列ではなく、複数の専門性が得られること

3.構成員の価値観、性格、バックグラウンドの多様性

4.事業や組織のレア度

抽象と具体はワンセットにすべきとよく言われているのでそれぞれ説明する。

1については生活基盤を固めるために合理的だから。また、技術に対する知見を広げたいから。

(この点は、社会を改革しうる力の有無、と面接で表現している笑)

2について、現代日本の労働者として、自分の需要を確保したいから。スピード出世したいから。

3について、自分の知見を広げたいから。もっと言うならば、画一的な組織にアレルギーがあるから。

4について、どうせ組織に入るならそこでしかできないことをしたいから。

正直、"軸"として価値観を就活カスタマイズした時点で実態と逸れる独り歩きしたモノになると思っているので、誤解を招かぬようまとめると、要するに「面白そうか否か」が判断基準だ。

これは裏から言えば、自分が楽しく人生を送る一助たり得るかどうかであり、自己中心的との批判も逃れ得ぬだろう。(だからなのか、「腹を割って話そうぜ」的面談を組まれると評価が急落しがち)

以上の要件だとベンチャー企業が妥当だと思っているのだが、ここで齟齬が生まれがちなのが「理念共感性」「待遇」の観点である。

上記の通り、ぶっちゃけぼくはかなり自己中心的視点で企業を選んでいる。この姿勢自体は全く間違いだとは思っていない。その私欲が会社の利益たりうることを表現できるか否かだろう。(もっとも、ぼくはその点でかなり苦労してきたワケだが)

つまり、「意識高い」からベンチャー志向な訳では全く無い。理想に燃える様なタイプではなく、合理的選択をとろうとしているに過ぎない。

ベンチャー企業相手に就活していると、理念共感性の要求度が高い宗教的な企業があったり、貴重な経験!圧倒的成長!ビバ長時間労働!といった待遇度外視の風潮があったり、ぼくとしては中々難儀なところである。

もちろん理念、ビジョンに対する共感や賛同は組織として最低限要るだろうし、制度が整い切っていないぶん多少の残業なんかもすることになるだろう。ただ、共感はあくまで共感に留まるべきであって「信仰」に至るべきではないとぼくは思うし、毎日終電ごえ&みなし残業30時間なんて待遇は、ぼくには「企業の鉄砲玉」にしか見えない。

真に社員を「同志」と表現するなら、社員持株会くらいは作って欲しいところである。史上の武士達だって、領主や幕府の「御恩」があるからこそ命がけの「奉公」で返していたのだ。返礼のない盲信は、まさしくカルト宗教団体のソレではないか?アレな話で悪いが、非合法だが大きな見返りがある分そっちのがマシな可能性もある。

この、"企業との距離感"をどの程度求めるかの観点で、一概にベンチャー企業と言っても千差万別だったと1年かけて感じた。

今日話してきた様な企業の人事から見ると、ぼくは「大手に行くべき人間」「俗物(要約)」だったようだが、ぼくとしては上記の"合理的判断基準"に基づいて、ベンチャーで働きたいと今も思っている。

これこそ本当に価値観の違いとしか言えないだろうし、この記事を読んだ人がどう思うかも多分各々変わってくる。

そうした揺らぎを踏まえて、改めてベンチャー企業適性って何だ?とぼくは問いを投げてみたいのである。

恩田陸『蜜蜂と遠雷』を読みました

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"彼女はいつもあそこを見つめていた。

何が見えるのだろう。

今、何を見ているのだろう。

明石は不意に熱く苦いものが込み上げてくるのを感じた。

俺もあそこに行きたかった。彼女が見ているものを見たかった。

いや、ほんの一瞬かもしれないが、見たと思うーー

続けたい。弾き続けたい。

明石は舞台の上の亜夜に向かって叫んでいた。

俺は音楽家でいたい。音楽家でありたい。"

おはようございます。

今日も今日とて東京砂漠の片隅からお送りします。

今回は、直木賞&本屋大賞ダブル受賞を成し遂げた大作、恩田陸の『蜜蜂と遠雷』の感想を書こうと思います。

私事ですが、恩田陸作品は『夜のピクニック』くらいしか読んだことがありませんでした。あのなんとも言えぬ淡さを味わうにはスレ過ぎていたのか、当時はあまり刺さらなかったので本作を楽しめるか危惧していたのですが、見事杞憂に終わりました。

本作は、「ここを戦い抜いたピアニストは大成する」というジンクスが囁かれる、日本のとあるピアノコンクールが舞台です。

スポットの当たるピアニストは4人。音楽界の常識とかけ離れた、天衣無縫の少年風間塵。彼とは対照的な正統派・王道の天才マサル。かつて母の死と共に、一度ピアノから退いてしまった亜夜。そして、「20過ぎたただの人」を自認し、記念受験的にコンクールに挑む明石。

コンクールを戦う中で、対話や演奏を通じて彼らが各々の成長を遂げていく様が、この物語の主軸です。

読んでてまずありありと感じたのが、ピアノが持つ特有の荘厳な美しい雰囲気です。誤解を招かぬよう言っておくとぼくの音楽的素質はからっきしです。

ただ、陳腐な表現にはなりますがまさしく映像的な文章なんですよ。コンサートホールの静寂や熱狂、ピアニストたちが抱える畏怖や高揚、クラシック楽曲が奏でる音楽家たちの心象風景。こういった諸々が視覚的なイメージを伴って顕在化していました。

「文章をどのように読むか?」というテーマにも関わってくるでしょうが、ぼくは基本的にいわゆる「脳内再生」が苦手な人間です。文字と映像が中々直結しません。

ニュアンスを汲み取ってもらえるか自信がありませんが、文章が想起する映像を観賞するのではなく、文字の連なりが持つ意味を頭でそのまま取り込んでいる感じです。

なので、コメディとかキャラ崩壊気味の二次創作なんかへの順応性は高いのですが、ゴリゴリのクラシックな純文学みたいなものは少し苦手です。これはもう完全に余談ですね。

話を戻すと、本作にはそういう貧困な想像力(笑)の人間にもコンサートホールをイメージさせるパワーがあるなと感じました。

それを実現するだけの要因のひとつとなっているのが、作者の多角的な視点です。

ともすればひたすらお耽美な雰囲気に終始してしまいそうなピアノ演奏の光景を、必死に自分の世界を描こうとするピアニストの視点、彼らの心象風景に陶酔してしまう友人・審査員たちの視点、音を分析しながらも圧倒されてしまう一観客の視点で書き分け、客観性を保っています。

そしてそれによって、どんな読者でもピアニストの演奏を楽しめるような分かりやすさを担保しています。

また、こうした異なるスタンスでの書き分けによって、天才たちの暴力的な無垢性によって宿る神秘性&それ一本で食べていくことが困難な音楽界の現実性という、ピアノのまとう相反する側面が物語を通して上手くまとまっています。

さて、小説全体のテクニカルなところを褒めた上であえて言及しますが、こうした厳然たる才能の世界を描いた物語を読むと、読者が肩入れする人物は自ずと分かれてくるものかと思います。(あえて共感ではなく肩入れと言います)

恋愛ドラマを見て誰を応援したくなるか問題と言えばより分かりやすいでしょうか(笑)

ちなみにぼくは、三角関係においてひとり報われない方のキャラが大好きです。読者の方にはおそらくバレバレでしょうが(笑)

この小説で言うならば、4人目のピアニスト明石です。天才たちに対する消化しきれない嫉妬心や怒り、純粋な憧れ、倒錯した優越感を抱え、メタ的に言えば「絶対に作中のコンクールでは優勝できない」と読者にバレてしまっている人物。

彼がどのように自分のピアノと向き合っていくのか?

優勝はありえないと作者に告げられた上で、どのような救いを得るのか?

そんなところも本作の見どころではないでしょうか。

またもうひとつ印象に残った場面として、三次選考での亜夜の演奏シーンがあります。

彼女もまた自分のピアノへの姿勢を悩み続け、風間塵の演奏に背中を押され、ついに自分のピアノを確立して舞台へ向かいます。

この亜夜の演奏シーンで、聴衆は皆自分の人生の一部始終を想起するんですよね。

ぼくは個人的に、人間は根っこで絶対に独りであって、苦しみや悩みに始まる他人の感情、人生を完全に理解することなんて出来ないと考えています。

「クソガキが無頼主義気取りやがって」「中二病かよ」などと言われるかもしれませんが、自分の人生を前進・変化させるのは自分でしかありえない。この考えは変わりません。

ただ、上記のシーンを読んだ時、人間が、そんな互いの不理解を超越して交わることが出来る媒体が音楽であり芸術であって、だから芸術家が"表現者"なんて呼ばれるのかなーと、ガラにもなく青臭いことを考えさせられました。

と、こんなところで今回は終わりたいと思います。

オススメですので是非ご一読下さい。

月村了衛『機龍警察 完全版』を読みました

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いきなりですが、皆さんには「自分はこう生きていくのだ」という強烈な行動原理、軸、生きる意味だというようなモノはありますか?

それは夢でも、職業意識でも、宗教でも、人間関係でも、正義感でもプライドでも全く構いません。病気や障害であったとしても、それが生きようとする原動力に結びついているのであればそれはそれで良いでしょう。

自分で自分の生き方を定めるという行いは、方向性と力強さを伴っている限り全て尊いものだと思います。たとえそれがどんなに後ろ向きなモノであったとしても。自死や虚無ではなく生に結びつくのであれば。


さて、のっけから何を青臭いことをほざいてやがるとの罵倒はごもっともです。ただの大学生が何言ってんだコイツと、ぼくの自意識も尖った針でつついてきます。

ただ、こんなクサいことを書き起こしてみたくなる程度には『機龍警察』という作品シリーズのキャラクター像にはインパクトがありました。

今のところ『火宅』以外の単行本まで読んだのですが、今回はシリーズ第1作について感想を書きたいと思います。


本作は、SF警察群像劇『機龍警察』シリーズ第1作となります。

舞台は犯罪のグローバル化が急拡大した"至近未来"世界。市街地テロの増加、局所的紛争の激化により、軍事・警察の観点から大量破壊兵器に代わる兵器開発の要請が高まり、世界では「機甲兵装」という装備が主流となりました。(小規模で現代的武装のモビルスーツのようなイメージ)

日本の警視庁は、新型機甲兵装「龍騎兵(ドラグーン)」を切り札とする特捜部を新設、龍騎兵の乗り手として3人の傭兵と契約し、各地で起こる重大事件と立ち向かうこととなるのでした。


この作品の魅力をあげるならば、

・パワフルで魅力的なキャラクター

・非常に緻密でリアリティ溢れる世界観

・テクニカルな脚本構成

以上の3点だと思います。


順に追っていきます。


キャラクターについてですが、まず第一に皆強固な行動原理を抱えています。その力強さたるや、読み終えた後記事冒頭のようなことを思わず考えさせられてしまうほど。

創作人物なんだから当たり前だろと喝破されてしまいそうですが、皆「キャラが立ってる」と一言で片付けてしまうには惜しい造形なのです。

特にドラグーンのパイロット3人の傭兵刑事たちは、それぞれ職業傭兵のプライド、警官の矜持、元テロリストとしての自罰を胸中に抱いています。各々の思いの形成のきっかけや克服の過程、それらが任務とぶつかる際の葛藤など、いずれも一筋縄ではいきません。

読むほどに彼らの過去が特捜部での任務を通して掘り下げられていき、内面がどう変わるのか、あるいは変わらないのか、文字を追う目を強く惹きつけます。


次に世界観、設定の部分ですが、"至近未来"と題しているだけあって、武装が機甲兵装でなければ、それはそのまま世界のどこかで起きているのではないかと思わせる現実味があります。さながらフィクションとリアルの"相似"です。

巻末の参考文献を見ても、作者が舞台を構築するためにどれだけの考証を重ねているのかが伺えるでしょう。

そして、国際犯罪の潮流に立ち向かう組織として日本警察を選ぶことで、作中描かれる暴力、犯罪の脅威は、もはや対岸の火事のままではありえないのだとするメッセージ性も感じます。

ただこの点では、作中再三警察の閉塞感について言及されるのですが、少々脚色が過ぎるのでは?と思ってしまうことがありました。もちろんぼくに実態は分からないし、物語の面白さを損なうほどのものでは無いのですが。


最後にストーリーについて。

警察小説であり、基本的にはずっと犯人グループと特捜部の対立構造で話が進むのですが、要所要所の組み立て方に妙を感じます。

主要キャラクターの抱えた因縁が、テロ事件を追っていくうちに運命の悪戯のように立ち塞がってくるのです。

本巻においては、ドラグーンパイロットの1人、姿俊之の過去に焦点が当たります。次巻『自爆条項』ではライザ・ラードナー、次々巻『暗黒市場』ではユーリ・オズノフ(いずれもドラグーンパイロット)において同じ構成が見られます。

過去と未来の"相似"とでも言えるでしょうか、この相似構造の魅せ方がまた上手。

この構成が非常にアツく、かつわざとらしくないんですよね。シリーズを通じて似た手法であるのに、全く違う人物像を見事に書き上げており飽きさせません。

またストーリー構造に関していえば、伏線の張り方とその回収が見事です。朝井リョウ伊坂幸太郎を想起する、ぼくの大好きなシナリオのパターンです(笑)

余談ですが、作者は元々アニメ等の脚本を手掛けていたそうで、その経歴を見て『機龍警察』での筆力に強く頷けました。



以上3点がぼくの推しポイントですかね。

指のおもむくまま入力してみたところ、第1作について書くといいながらシリーズ通しての感想になり、第1作特有のところには言及がヌルくなった気がします。そこはネタバレ回避ということにしてご容赦下さい(笑)



確か、新刊『狼眼殺手』が7月だか9月だかに単行本化されるそうです。ぜひこの機会にシリーズに手を出してみてはいかがでしょうか。

それでは。




自分探しは"病気"なのか?

久しぶりの更新である。
なんだかんだ、年度明け以降ざっくり2週間以内くらいのペースでは更新を継続していたという自分に驚き。緩く長く続けていきたい。

相も変わらず就活中で都内にいるわけだが、早朝の時間潰しにファミレスで読んだブログ記事が面白かった。
http://globalbiz.hatenablog.com/entry/2016/01/09/000858
筆者の方は日系メーカー→外資系企業のキャリアを踏まれているようで、貼らせてもらった記事以外にも、組織論やキャリア観の領域で含蓄深い事を書かれている。(自分がそれらを十全に活かしうるキャリアを積めるかどうかは置いておく)

今回は、当該ブログの上記記事を読んで考えた事をつらつらまとめようと思う。結果としては反論の形になるが、大いにぼくの主観と経験則に基づくものである点をご容赦いただきたい。もし読んでくれた人がいたら考えを聞かせてくれると嬉しい。


以下引用。

「自分探し」というのは、いまを生きる人の宿痾のようなもので、みな多かれ少なかれ人生において「自分らしさ」というやつを追求しようとしてしまう。でも残念ながらこの追求はどこにも行き着かない。なぜなら、「自己」というのは、それ自体で存在するものでなく、他者との関係性によって規定され、浮かび上がってくるものだから。

アキコのセリフが泣けるのは、彼女がこのことに改めて気づき、素直な気持ちを吐露しているから。漫画が描きたい、なんとか売れたい、こう願って先生のことを忘れて東京で仕事にのめり込む作者。でも、彼女は先生の死に触れて、自分の存在が先生との関係を通じて構築されていることに気づく。師匠である先生が最後まで言い続けた「描け」という激を通じてこそ、漫画家としての彼女の存在が立ち上がるのだということを。

「実存は本質に先立つ」のではなくて、我々の主体は関係性(システム)によって規定されているのだと構造主義は主張し、サルトル実存主義)の息の根を止めた。けれど、我々の社会では、いまだに自分探しによって「ほんとうの自分」にいつか辿り着くのだ、という神話が流通している。その先は袋小路でしかないのに。

以上引用。


筆者は読まれた漫画についてこうした考察を述べている。

だがぼくの考えとしては、自己が周囲の関係性に規定されることを根拠にして自分探しを"気の病"として斬って捨てることはできないと思う。

ここで言う自分探しとはつまり、個人で完結しうるアイデンティティの追求であり、なぜそれを行うかといえば、結局、自分の人生に価値を見出せていない状態をどうにかしたいと感じるからだろう。

言い換えれば、昨今話題になる自分探しの本質とは、各々の個人がそれまでの他者関係や経験を省みたその上で、「これからどのように生きていけば自分は満足できるか?そのための指針はどこにあるか?」という未来志向の改革意識なのではないだろうか。

おそらく筆者がいう自分探しは、「これまでの自分がどんな存在であったか」という意味での過去に目を向けた営みであって、その視点においては確かに独立確固とした自己像などは存在しないのかもしれない。人間は社会的動物であり、他者との関係無しに生きてきた人間などあり得ない。その観点無しに過去の"自分"を探すことは確かに不毛だろう。


だが、「これからの自分がどう生きていくべきか」というスタンスを取る視点においては、その人なりのロールモデルとしての"自分像"を定める営みはあって然るべきだ。

なぜなら、他者が「これからの自分の人生にどのように関係してくるか」は全く不確定の要素だから。

もちろん、ぼくのいうロールモデルとしての"自分像"を探していく上では、繰り返しにはなるが、過去の自分が他者との関係性によってどのように構築されてきたかという視点で考えることは必要不可欠だ。


今までをみるか、これからをみるか。

自分探しという言葉には二方向への視点が存在し、後者について考えうるのは自身という主体にしかなし得ないことではないだろうか。

自分探しで"病んで"しまうのは、この二方向の視点をごちゃ混ぜにしたまま自己分析を行うという取り組み方の問題だと言えよう。


もし健全な自分探しの手法において袋小路に陥ってしまうことがあれば、他者の視点からの意見に示唆を求めるのも大いに有効だろう。

だが、自らの人生を全うしてくれるのは自分以外他ならないのであり、どれだけ他者に影響を受けようとも主体者としてハンドルを切れるのは自分だけであり、そこでの能動性は忘れてはならないと思う。


メモからコピペしたらフォントが崩れた。 ごめんなさい。

アメスピメンソール9mm

新宿のコメダ珈琲で説明会までの時間を潰していたら、煙草の話をしたくなった。嫌煙家の方は画面を閉じよう。

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ぼくは比較的ヘビースモーカーで、しかも煙草をころころ変えるタイプの人間だ。雑食といった方が適切かもしれない。

「ピースとハイライト」はどっちも好きだし、キャスターもセッターもマルボロダンヒルも吸う。なんならキセルも持っているし、葉巻(安いアジア製だが)も嫌いじゃない。水煙草の妙ちきりんなフォルムも可愛らしい。ダサいと罵られがちだが電子煙草も悪くないと思う。

銘柄の浮気傾向は、そのまま異性への浮気傾向だなんて俗説もあるらしい。

なにもそんなところにまで一貫性を求めないで良いだろうとは思うが、もし酒好きを自称する人間が「ビールとウィスキーと焼酎と日本酒とワインを嗜みます。あ、でもカルーアミルクも悪くないと思いますよ」などと抜かしたら、確かに節操無しのアル中というレッテルを免れないだろう。間違っても、バーに座ったスタイリッシュな男をイメージするのは困難だ。いわんや異性関係をや。

おそらく煙草もそうで、嗜好と中毒の境界線は一途さの上に引かれているのではないだろうか。

格好良さにはこだわりがつきものだ。映画『SCOOP』での福山雅治はコイーバを愛飲し、路上喫煙、ポイ捨て、と嫌煙家発狂待った無しの振る舞いを見せるが、投げ捨てたマナーを補って余りある艶やかさを漂わせている。(本人のイケメンさだろとか言わないでほしい)

ぼくが真似して同じ銘柄を買ったら酷くむせた。

閑話休題

友人から、煙草が主食、ヤニカス、悪食、ニコ中などなど愛すべき称号をいただいているぼくだが、マジで全くこだわりがないワケではなく、特に愛着のある銘柄がいくつかある。

その1つがアメリカンスピリットの9mmメンソールで、初めて常喫し始めた煙草だ。鬱屈を晴らしたかったクセに下戸で酒に溺れることも出来なかった2年前の自分にとって、コンビニレジの長方形はとても魅力的に映った。

そして、アメスピの"ホンモノ感"と、メンソールのお手軽感のハイブリッドは、ぼくの背伸びした自尊心と臆病を巧みにくすぐってくれた。

様々浮気をしながらたまにこれを吸って、鼻に抜ける清涼感と混じり気のない草の香りを感じる時、極小の社会で折り合いがつけられずにウダウダ物思いに耽っていた夜を思い出すのである。

煙草に限らず、文庫本、チューハイ缶、腕時計、スマホのアプリなど、すでに生活に浸透しきったモノに一時距離をとって思いを馳せてみると、ちょっとの郷愁と安らぎを感じることがある。

ぼくの場合、不思議なことに写真などの"いかにも"な思い出の品よりも、不意にやってくるこのような回顧に心を揺らされるのだ。

このわけのわからない世知辛い社会において、それらはテストの日の昼休みのように頼りない安らぎかもしれないが、確かに自分を支えてくれることがあるかもしれない。